特別公開:キャラクター・メイキングの段階 5 意識の対象化によるデザイン──詩と神秘を育てる 山川健一

詩と神秘は手を取り合ってやってくるのである──

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「私」物語化計画 2021年6月25日

特別公開:キャラクター・メイキングの段階 5 意識の対象化によるデザイン──詩と神秘を育てる 山川健一

キャラクター・メイキングの具体的な段階を巡る最終回です。6の『「ジェノバの夜」の対象化』については最初に書いたので、今回は「意識の対象化によるデザイン」だ。

これはもっとも高度だが、もっとも重要なキャラクター・メイキングの方法なのである。

今回ばかりは難解だとの誹りを受けることを覚悟して書きます。文学という山は高く登頂するには並大抵の苦労ではすまないが、人生をかけてそいつに挑むことには宝石のような価値がある。

 

【YOASOBIの「怪物」が体現する文学の原理】

小説と文学はイコールではない。

小説など一編も書いたことがない市井の読書人の中に、文学のスピリットが呼吸しているケースはよくある。反対に、小説を量産している作家の中に文学が感じられないこともよくある。

良い悪いの問題でも、才能があるかないかの問題でもない。単純に、小説と文学は必ずしも完全には重複しないという事実があるだけだ。文学は小説だけではなく、詩や日記や戯曲までを含むのである。さらに書くことと読むことは同じように「文学」と呼ばれる行為である。

僕はけっこうな数の小説を書いてきたと思うが、それでもたとえば畳職人の方が畳を作り続けるように小説を積み上げていきたいとは思わない。そういう才能には欠けているのだ思っている。

むしろ「私」の在処を確かめるために文学の方法を駆使したいと思ってきた。

このサロンの基本設計、「私」探しの旅と小説を書くことは同じことなのだという仮説は、僕のこうした考え方に基づいている。

文学=小説と思われがちだが、実はそうではない。文学とは、合理的な連続体ではない「私」の在処を確かめるための方法であり、小説はその一形態に過ぎないのだ。

全盛期を過ぎたマイルス・デイヴィスのトランペットを聴いて、或る若いジャズメンが「下手くそじゃないか。あれなら俺の方がもっと上手に吹ける」と言ったエピソードを紹介したことがあったが、覚えてますか?

先輩のミュージシャンが「お前が演奏する音楽の形式そのものを作り出したのがマイルスだ。お前には音楽の何たるかがマイルスの100分の1もわかっていない」と叱ったのである。

マイルスはトランペット吹きである以前に、イノベーターだった。なぜイノベーションが必要なのか。それは、「私」とは固定されてそこにあるものではなく常に変化する運動体として存在するからだ。「私」の輪郭を描こうとすれば、イノベーションが不可欠なのだ。

ヘーゲルはこの世界を「諸事象の集合体ではなく、諸過程の集合体である」と考え、弁証法を構築したが、「私」だってそうだ。

もっとわかりやすく言うなら、純粋な文学に近いのは小説ではなく詩なのだと思う。意識を対象化することによってキャラクターを最初にデザインしたのはドストエフスキーだと思うが、ドスト氏以上に明確に意識をキャラクター化したのはランボーでありボードレールだった。

小説家の志賀直哉や批評家の小林秀雄以上に、鮮烈に文学のスピリットを刻印したのは詩人の中原中也だった。

高校時代の僕は中也やランボーの詩のほとんどを暗誦していたものだが、別に中也やランボーでなくてもいい。ローリング・ストーンズの歌詞でもいいし、ポップソングの歌詞でもいい。

いま日本で大ブレークしているYOASOBIの歌詞には感心させられる。「怪物」の歌詞の後半が何気なく耳に入ってきて、「これ、文学の原理じゃん!」と僕は思ったのだった。

 

この間違いだらけの世界の中

君には笑ってほしいから

もう誰も泣かないよう

強く強くなりたいんだよ

僕が僕でいられるように

 

ただ君を守るそのために

走る走る走るんだよ

僕の中の僕を超える

YOASOBI「怪物」

 

YOASOBIの「怪物」はテレビアニメ『怪物』のテーマソングで、原作小説となっているのは、板垣巴瑠が書き下ろした『自分の胸に自分の耳を押し当てて』だ。

草食獣を守るために動き出したオオカミ、レゴシの物語である。

オオカミの本能は肉食で、しかしレゴシはウサギのハルのことを思い浮かべて走るのである。オオカミとウサギの関係が現代社会のメタファーになっている。歌詞もそれを伝えようとしている。

そして「僕が僕でいられるように」「僕の中の僕を超える」とは文学の原理そのものではないか。

小説など一編も書いたことがない市井の読書人の中に「僕が僕でいられるように」という意志が秘められていればそれが文学だし、マイルス・デイヴィスが音楽のイノベーションに生涯を賭けたのは「僕の中の僕を超える」ためだった。

「意識の対象化によるデザイン」を学ぶために最初に有効な方法は、詩を読むこと、詩を生きることである。もちろんYOASOBIでもいいので、好きな詩は暗誦しよう。

 

【神秘への扉を開く「意識」】

優れた詩は、あるいは詩的な精神と言った方がいいかも知れないが、精神の深い部分に届く。実はこれが重要なのだ。人間の精神とは合理的にはできておらず、時として不合理な塊にぶつかることがある。

不合理だと言うのは、2×2=4にならない世界のことである。

アンドレ・ジイドの『狭き門』のアリサは最終的に地上での幸福を放棄し、愛しているにもかかわらずジェロームとの結婚をあきらめてついには命を落とす。

はぁ? なんで? 意味がわからないんですけど──と中学生の僕は思った。

残されたジェロームは、年上の従姉妹であるアリサが遺した日記に綴られた自分への熱い思いを胸に、全てを忘れてしまうまで一人生きていくことを決める。

なんでですか? 意味不明なですけど──と千葉の中学生はあきれたわけだ。

大人になった今は、アリサのキャラクターメイキングは秀逸だと思っている。合理性を超えているからだ。

この合理性を超えた場所の向こうには、神秘的な世界が広がっている。神や妖精や、ユングが言う集合的無意識(普遍的無意識)の世界である───続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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