初心者にもよくわかる文章教室 07(最終回) 一黙を守った維摩、弓の名前すら忘れ去るに至った紀昌 山川健一

──小説の結末は「淵黙雷聲」を守ることが重要だ。そして、主人公の想いを具体的な物の描写で表現するのだ──と僕は言ってきた──

 

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2024年5月31日

特別公開:初心者にもよくわかる文章教室 07(最終回) 一黙を守った維摩、弓の名前すら忘れ去るに至った紀昌 山川健一

【冒頭・会話・結末】

先週は、何を書き何を書かないのか、ということについて私見を述べた。これは純粋にテクニカルな話である。
《冒頭》

小説はその冒頭で「欠落」について書かなければならない。そこは山の麓にある大学で、主人公はこの大学に通う2年生で、同じクラスの愛子が好きだ──などと長々と説明してはいけない。いきなり、「愛子が他の男と横断歩道を渡って行くのを見た」という具合に欠落を提示することが必要だ。

 

《会話》

小説の中の会話は、現実の会話とは全く異なる。会話とは象徴であり、場面展開の貴重なキーであり、メタファーの宝庫である。あるいは、他者から差し込んでくる透明な光である。相手の言ったことを繰り返す、というような事は、現実の会話の中では多々あるが、小説中ではこれをやってはいけない。

さらに言うならば、会話によってストーリーを進めてはいけない。絶対にいけないという事はないが、会話に頼ってストーリーを展開させる作品は退屈である。

小説中の会話は、著者の世界観の表れであり、ユーモアの源泉であり──つまり重要なのだ。くれぐれも、書き飛ばすことのないように。

 

《結末》

書きたいことを、描写ではなく説明してしまっているケースがあまりにも多い。

説明ではなく描写だと皆さんにも何度も言い、もちろん自分自身にも言い聞かせてきた。しかし、そこが小説の難しいところで、実際に書いてみると説明になってしまうのだ。

人間が生きていくことは悲しい、社会は不正義に満ちている、同じ人間なのにこの世界には恵まれた人とそうでない人がいる──というようなことは作者の隠された意図にすべきで、直接的に書いてはダメなのだ。

いちばん大切なことは読者に感じさけなければならないわけで、それを書いてしまっては作品にならない。

 

というわけで、淵黙雷聲の話である。

 

【淵黙雷聲】

「淵黙雷聲、維摩の一黙、雷の如し」という言葉は、小説のテクニカルな問題を超えている。

淵黙雷聲については前に書いたことがあったと思うが、僕自身の中で知見が深まったので、それについて書く。「へんもくらいせい」もしくは今では「えんもくらいせい」と読む────続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

 

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