特別公開:レトリックを身につける5──バルザックはメタファー化した自然描写で官能を表現した 山川健一

長編小説を書いていて同じような問題にぶつかった時、凡人の僕などは困る。おそらく困り果てるだろう。しかし大英雄バルザックは違う。
彼はどうしたか?
ストーリーにはまったく手を加えずに、小説の全体に豊かな自然の描写を書き込んでいくのである。

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「私」物語化計画 2020年2月28日

特別公開:レトリックを身につける5──バルザックはメタファー化した自然描写で官能を表現した 山川健一

【オノレ・ド・バルザックのメタファー】

次に参考にしたいのは18世紀のフランスの作家、バルザックである。

彼の代表作『谷間の百合』は、タイトルが既に隠喩なのだが、バルザックはいわば隠喩(と、ここは漢字に戻る)の天才である。

この長編小説の冒頭部分を引用する。

家庭という土壌のなかで、まだか弱いその根が固い石くれにしかめぐりあわず、最初にもえ出た葉は憎しみの手にもぎとられ、花びらを開いたそのときから、寒さにいためつけられた魂が、ただじっと黙って耐えしのぶ苦悩の数々を、この上なく感動をさそうその悲歌を、涙にはぐくまれたいかなる才能が、いつの日私たちの目に描きだしてくれることになるのでしょう。

バルザック『谷間の百合』石井晴一訳 新潮文庫

冒頭部分から隠喩のオンパレードだが、僕が特筆したいのはそのことではない。バルザックにおけるもっと大きなメタファーの話である。

 

この長編でバルザックは、語り手である青年貴族フェリックスと薄幸のアンリエット・モルソフ伯爵夫人との恋を描いているのだが、これはほぼ自伝である。

翻訳者の石井晴一も文庫の解説でこう書いている。

『谷間の百合』(Le Lys dans la vallée)は、バルザックの作品中にあっても、『ルイ・ランペール』『あら皮』等と並んで自伝的要素の強い作品である。モルソフ夫人に会うまでのフェリックスの少年時代は、バルザック自身のそれをほとんどそのままなぞっているばかりでなく、夫人との恋、夫人に対する裏切り、そこから生れる悔恨なども、個々の事実関係こそ異なれ、バルザック自身の体験を反映するものと考えられる。

石井晴一

田舎へ里子に出され、家族からは三年間もほっておかれたのち、父の家にもどってからも家族に疎まれて育った末っ子であるフェリックスは、舞踏会で出会った若き伯爵夫人、アンリエット・モルソフに一目惚れする。

アンリエットはプラトニックな関係を望み母性的愛情を持って接し、彼に処世術を教えパリへ送り出す。

フェリックスはその後パリでダッドレー夫人と出会い、恋愛関係に陥る。アンリエットはダッドレー夫人への嫉妬心に苦しみ死んでしまう──というストーリーだ。

 

アンリエット夫人にはモデルがいて、これはベルニー夫人という女性だ。小説中のアンリエットは二人の子供がいるもののまだ若く、二人はプラトニックな関係であるという設定だが、現実のバルザックがベルニー夫人に出会った時彼女は既に46歳で9人の子供があり、バルザックは母親のような彼女と愛欲の限りを尽くしたのである。

そんなふうにディテールが違うのは小説なのだから当然で、彼女はそれほどの美人でもなかったという証言もある。しかしこうした細部の相違は、小説であるかぎり当然のことであり、ベルニー夫人は20歳以上も年下のバルザックを人間としても、さらに作家としても育てたのである。

 

ところで品のない言い方で申し訳ないが、現実と小説のもっとも大きな違いは二人がセックスしていたかどうかということだろうが、バルザックは小説中では「モルソフ夫人との恋はプラトニックなものであった」という設定を守りきるのである。

アンリエットは言う。

「祖母が孫を愛するようにわたしを愛して下さい」

「伯母が姪を愛するようにわたしを愛して下さいませ」

かくして、貞淑な伯爵夫人とのプラトニックな純愛を描いた、比類なき官能小説が誕生したわけである。

社会のモラル観も今とは大きく異なり、事実『谷間の百合』はカトリックの批評家フィリップ・ベルトーなどに厳しく批判されたようだ。

しかし読者の側には、プラトニックな関係ならなぜ彼女が死ぬ必要があったのかという疑問がのこる。これは小説の根幹に関わる問題で、ないがしろにはできない。

 

さて、長編小説を書いていて同じような問題にぶつかった時、凡人の僕などは困る。おそらく困り果てるだろう。しかし大英雄バルザックは違う。

彼はどうしたか?…..,(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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