特別公開:「正義」だけは脱構築することができない
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『正義を巡る講義の最終回です。
先週は、僕らが社会生活を送らなければならない上で考えなければならない正義の4つのカードを紹介した。最近発覚した関電の幹部による収賄事件は、もちろんこのカードのどこにも入らない。
正義について考え解決できない問題にぶつかることを「モラルジレンマが生じる」と言うが、今の日本を覆っているのはむしろモラルハザードである。』
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「私」物語化計画 2019年10月4日
特別公開:「正義」だけは脱構築することができない 山川健一
正義を巡る講義の最終回です。
先週は、僕らが社会生活を送らなければならない上で考えなければならない正義の4つのカードを紹介した。最近発覚した関電の幹部による収賄事件は、もちろんこのカードのどこにも入らない。
正義について考え解決できない問題にぶつかることを「モラルジレンマが生じる」と言うが、今の日本を覆っているのはむしろモラルハザードである。
復習になるが、4つの正義のカードとは、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムに功利主義を加えた4枚だ。僕は政治思想でも哲学でも心理学でもなく、文学というものを信じたいと願っているので、4つの正義の他に、文学的な正義という5枚目のカードがあるのだと思っている。
今回の話は多分難解なので最初に結論を書いてしまいますが、文学的正義には2枚のカードがある。1枚目のカードは、小説作品それぞれに添付されているカード。これを仮に「文学作品正義カード」と呼ぶことにする。もう1枚は、それがないと作家が(作家でなくても)書いていく、あるいは生きていく意味を失いかねない「脱構築不可能な正義カード」だ。
脱構築については後で説明しますが、この二つの「正義」のカードの存在に自覚的になることで、あなたが書く小説は、あなたが送る人生は一気にコアを獲得し明確な輪郭を描くようになるはずだ──ということでスタートしよう。
【課題図書の正義について考える】
小説には固有の「正義」というものがある。それがないと作品はまとまらない。
これが「文学作品正義カード」ね。
正義という言葉は少し抽象的かもしれないので、これを「主人公の行動指針」あるいは「達成すべき目標」という言葉と置き換えてみても良い。「テーマ」でもいい。
「達成すべき目標」というのはアメリカの原発の危機管理から生まれた考え方で、何よりも安全を優先させなければいけないのに、企業の保身やコストのことを考え肝心の最も重要な目標を見失ってはならない──というロジックだ。
小説も同じだ。
具体的に考えていただくために『「私」物語化計画』で課題図書にしたいくつかの作品を見てみよう。
『メリイクリスマス』(太宰治)における正義とは「肯定的に生きる」ということだろう。この作家のパブリックイメージからすると意外にも思えるが、結末部分にそれはよく示されている。
娘の母親が亡くなっていることを主人公が知ってからの数枚に、それは明瞭に描かれており、そう気がついた後に、それ以前のページを読み返してみるとこの小説が全編を通じて肯定的に生きる意思に貫かれていることがわかる。
『ヴィヨンの妻』でもそうだが、普通に考えると絶望的な状況の中で登場人物のちょっとした仕草や微笑みの描写で「肯定的に生きる」と言う正義が体現されている。
『時間』(横光利一)における正義は、主人公たちが最後に掴み取るものだ。それは「誰も見捨てずに全員で生き延びる」という意思である。
そこまでの展開に、紆余曲折がある。人間の肉体が限界状態に陥り、男は殴り合い、女は血を流し──その結果結末部分で宗教的な覚醒があり、仲間の誰を見捨てるのでもなく、全員で力を合わせ生き延びるのだという正義が体現されることになる。
この作品はおそらく横光利一がキリスト教的な価値観に対応するものとして仏教的な世界を描いているのだろう。
『電気ちゃん』(楠章子)における正義とは、恋愛相手の「男の胸の奥に潜んだ暗部から発せられる暴力を許す」ことだ。
他の客がいないバーで、電気ちゃん(バーテンダー)は鳥子(主人公)にいきなり暴力を振るう。殴りつけ、床に転がった彼女の体を蹴る。
《暴力に取り憑かれ、一度熱くなってしまうと止まらないようだった。》
二人が初めてセックスするのはその後だ。
つまり鳥子は電気ちゃんを許したのだ。許したことによって、「白い煙のようなものが口から出て行った」というカタルシスが訪れる。
この小説の構造で重要なのは、「正義=許す」が存在しなければカタルシスは生まれないということだ。
会員の皆さんには、この構造をぜひ学んでいただきたいと思います。
『ジジきみと歩いた』(宮下恵茉)における正義は、主人公自らが言葉にしている。
ジジという愛犬が亡くなり、この犬が父親と共に河原に登場する幻想を翼(主人公の少年)は見る。父親とジジは、彼岸へ還っていったのである。
翼は向こう岸に向かって、大きな声で叫ぶ。
「ぼく、もう、だいじょうぶだよ!」
この「だいじょうぶだよ!」という言葉そのものが、この小説における正義の表明なのだ。その一点に向けて、作家はイノセントな描写を積み上げていく。逆に言うと、結末近くで描かれる正義の存在がなければ、それ以前の描写はすべて成立しないということだ。
僕は前の講義テキストで、
〈構造的な大きさ、きらびやかな文章、そのコアで息づくイノセンス。それがこの作家の大きな特徴だろうと僕は思っている〉と書いたが、そうした世界が成立し得るには「ぼく、もう、だいじょうぶだよ!」という正義、行動指針、達成すべき目標の存在がなければならないのである。
主人公の翼のこの言葉は、それほど重要だということだ。
『日本一の商人 茜屋清兵衛奮闘記』(誉田龍一)における正義とは非常に具体的だ。それは「潰れそうになった実家の縮緬問屋を立て直すこと」だ。主人公の清兵衛がこの店を立て直すために呼び戻されるところから物語は始まる。
この小説は時代小説なのだが、きっちりこの正義の枠組みを守っていて、それが小説にとって必須であることがよく分かる。
このように色々な小説があり、それぞれの作品を貫く正義は抽象的な価値観からこの作品のように極めて具体的なものまで、非常に幅広いとうことだ。
見て来た通り、小説には固有の「正義」、あるいは「主人公の行動指針」「達成すべき目標」「テーマ」というものがあり、それぞれの作品がその一点に向けてフォーカスされていることがよくわかるだろうと思う。それがないと作品はまとまらないのだ。
以上が「文学作品正義カード」の紹介だ。多分、ここまでは分かりやすかったはずだ。
【世界は諸事象の集合体ではなく諸過程の集合体】
ここから少しややこしい話になる。小説の作法というよりも「自分探しの旅」に寄った話になるかもしれない。最初に説明した「脱構築不可能な正義カード」の話です。
小説を書こうとしている作家の胸の中に宿る「正義」とは何かということについて、僕は長らく考えてきた。そもそもエゴの強い、客観的に考えれば最低の人種に分類されるような作家たち……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)