特別公開:ストレッチ5 エンターテインメント小説を書こう
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ストレッチシリーズ最終回となる今回は、「ストレッチ5 エンターテインメント小説を書こう」。特別公開は冒頭の一部のみとなります。ご興味をお持ちの方は、ぜひオンラインサロンへご参加ください。
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「私」物語化計画 2018年12月14日
特別公開:ストレッチ5 エンターテインメント小説を書こう
ストレッチの最終回は、エンターテインメント小説を書こうというテーマだ。ぼくが学生達によく言うのは「純文学だけが小説ではないよ。恋愛小説や推理小説やファンタジー、時代小説、児童文学やライトノベルといったエンターテインメントを書いてごらんよ」ということだ。
ところが二十歳前後だとまだ大恋愛はしたことはないし、犯人が逮捕された後のシーンを書こうにも警察組織のことがわからない。ファンタジーも同様で、膨大な知識が必要とされるわけで、そこに辿り着くには時間が必要だ。
時代小説も然り。
というわけで、純文学っぽいものか純文学に近い児童文学に挑戦する学生が多い。悪いことではないかもしれないが、カテゴリーを限定すると自ずと限界もある。
そもそも、日本語で書かれた小説を区分けする時に「純文学」の対立概念は「エンターテインメント」と表現するしかないと思うのだが、では谷崎潤一郎や川端康成や三島由紀夫、太宰治は純文学の作家だろうか?
いやいや、彼らはもれなくむちゃくちゃ面白いエンターテインメントも書いている。
むしろ海外の小説の方がわかりやすいかもしれない。
現代文学は、これは偶然の要素がとても大きいと思うのだが、カミュとカフカの登場によって一変した。カミュの『異邦人』は、不条理の文学ということであまりにも有名になった。
記憶に頼って書くので不正確なのをお許しいただきたいが、アルジェリアで暮らすムルソーは、母が養老院で死んだという電報を受け取るが、葬式へ行っても悲しみを見せず、翌日には偶然出会った旧知の女と情事にふける。
その後トラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺してしまい逮捕される。
裁判では、母親が死んだのに悲しむ様子も見せない冷酷な人間でだと糾弾され、殺人の動機をこう述べる。
「太陽が眩しかったから」
今では、この台詞はあまりにも有名だ。
死刑を宣告されたムルソーは神に祈りなさいと迫る司祭を監獄から追い出し、人々に罵声を浴びせられながら死んでいくことを人生最後の希望にするのだった。
太陽が眩しかったから殺した? えーっ、そんなの動機にならないじゃん──でも、無茶苦茶カッコいいよな、とぼくは思ったのだった。
カフカの『変身』はある朝目を覚ますとザムザは毒虫になっていたという設定で、最後までその理由は明かされない。
プラハのユダヤ人の家庭に生まれたカフカの小説でしばしば描かれる正体不明の恐怖は、ナチスドイツへの怖れのメタファーだとぼくは思っている。未完に終わった『城』こそはナチスそのものではないか。
カフカの妹は、ナチス・ドイツによってオーストリアが併合された際、アウシュビッツに連行されここで殺害された。複数の恋人達も同じ運命を辿っている。
だが、そういうことを言うと「そんな風に腑に落ちるとカフカはつまらなくなる」と、一蹴されてしまう。
誰に?
芸工大の教員仲間の批評家の石川忠司にである。
批評家のロラン・バルトが『零度のエクリチュール』というデビュー作でカミュ達を絶賛し、やがて構造主義、ポスト構造主義という思想の流れの中にカミュやカフカは位置づけられポスト・モダン文学と呼ばれるようになっていく。
そんなカミュやカフカに続くポスト・モダンの作家達が「純文学」なのではないかなぁとぼくは思っている。
ストレッチのはずが話がややこしくなった。
でも、ここは勢いでもう一言。
ポスト・モダンの作家達はこんなふうに考えているのではないだろうか。
「喜びも悲しみも怒りも不安も……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)