新しいスタートラインに立つ 4(最終回) プロットを封印して地図のない旅に出よう 山川健一
──だから一旦、プロットを捨てる。論理的な構造に蹴りを入れる。世界を棄てる。愛も暴力も憐憫の感情も怒りも棄てる。
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「私」物語化計画 2022年4月29日
特別公開:新しいスタートラインに立つ 4(最終回) プロットを封印して地図のない旅に出よう 山川健一
【イノセンスの表現としての暴力シーン】
長くかかった小説を書き終え、僕に叱られながら何度も細部まで丁寧に直して新人賞に応募したばかりのKさんが、深夜の電話でこう言った、
「ウクライナで戦争が続いている今、どうやって小説を書いたらいいんですか。小説を書く意味なんてあるんですか。これは重要な質問なので僕にこの電話で個人的に答えるのではなく、講義テキストでちゃんと書いてほしい」
OK、OK、OK、書くよ。
というわけで、その約束を果たすために今週の原稿を書く。
Kさんはこんなメールをくれた。
お疲れ様です。次の小説を新人賞応募後、1週間で書き始めるようにご指示いただきました。(略)の作品を考えています。ですが、この時代にロシアの不条理な(ナチス的)行動にリアルな暴力を描く意味があるのかと考えて居ますが答えが出ません。
僕としては昔、高倉健がヤクザ映画で、敵対組織に殴り込む時に、鶴田浩二が途中で待っていて俺も行く的な様式美なら描く意味があるのではと考えています。
先生はどのように考えられますか?
僕としては、コロナよりも、ロシアの虐待の方がリアルです。
(『「私」物語化計画』会員K)
1週間で次の小説を書き始めろと指示を出したのは僕である。
さて、どう答えるかな。
暴力とは小説の中で、もっともイノセントなものとして描かれなければならない。イノセンスを表現するためにこそ、暴力シーンが構築される。
不良少年文学の代表者であるアラン・シリトーの『長距離走者の孤独』などいくつかの作品でも、ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果ての旅』などでもそうだ。
これは重要な問題で、イノセンスに繋がらない、例えばDVなどの暴力は低級な暴力なのである。現実に僕らがそのような暴力に出会ったら、そこから文学の秘密を抽出しようしたりせずに、殴り返すか逃げるかすべきである。
ちなみに今回の「ジェノバの夜」の課題では、両親のどちらかからの暴力について書き記されたレジュメが多かった。
ついでに言えば愛と性は、人間の関係が極限的な場面では逆転するのだという構造を表現するのに有効だ。つまり、女を支配していたと思っていた男が実は女に支配されていた──とか。
川端康成の『雪国』では主人公が芸者の駒子と肉体的に結ばれた瞬間、もっとも遠い場所に引き裂かれる。谷崎潤一郎における「性」の世界の中心にあるのはマゾヒズムで、性を描くことで大谷崎(三島由紀夫がこう呼んだ)は昼間の世界を大胆にひっくり返しているのである。
今、現在進行形で戦争という究極の暴力が進行している。拷問、強奪、レイプ、殺人という唖然とさせられる悲劇がブチャやその他の町や村で報告されている。マリウポリの製鉄所の地下に1,000人を超える民間人が閉じ込められ、ロシア軍はプーチンの攻撃停止命令を無視して(あるいはプーチンのあのスピーチは国内向けのプロパガンダに過ぎなかったかもしれないが)攻撃を続けている。
製鉄所にはウクライナ兵士約3,000人、地下シェルターに避難する市民約1,000人がいるのだと報告されている。ロシア軍は彼らを標的として特殊貫通弾バンカーバスターで攻撃している。
僕は毎日起きると、まずiPhoneでアゾフスタリ製鉄所に化学兵器か核兵器が使用されていないかどうかを確認する。大量虐殺が強行されていないかどうか。それが日課になっている。
Kが作品のクライマックスでバイクチームがぶつかり合う暴力シーンを書こうとする──その時に何が起こるのだろうか。
彼の頭の中には、小説中の暴力シーンの映像的なイメージが湧き上がり、さらに暴力が意味するものが焦点を結ぼうとする。
その瞬間、彼がSNSなどから得たブチャの地獄絵図がフラッシュバックするだろう。
それでもこのシーンを、描ききることができるのか?
そういう問題が、あらゆる場面で起こることになる。
問題なのは暴力シーンだけではない──続きはオンラインサロンでご覧ください)