特別公開:ドストエフスキー講義 04 反キリストとしてのラスコーリニコフ 山川健一
ドストエフスキーの神への不信は現代的で、共感できる。小説が人気を博したということは当時の人々も似た感覚を持ちつつあったのだろう──
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「私」物語化計画 2021年4月2日
特別公開:ドストエフスキー講義 04 反キリストとしてのラスコーリニコフ 山川健一
『罪と罰』は推理小説、エンタメとして読むことも出来る。これが1番ポピュラーな読み方であることに間違いはないだろう。
だがもちろん、それだけではない。今週は、僕の読み方というか、この長編小説に向かい合うときの視点を書き記しておこうと思う。参考にしていただければ幸いです。
【悪魔としてのラスコーリニコフ】
最初から物騒なことを書くが、主人公のラスコーリニコフは、理想に燃えた青年などではなく、この世界の有り様に十分に絶望しきった反キリスト者なのである。
いわば悪魔だ。
一時期、江川卓氏の『謎とき「罪と罰」』がきっかけになり、「ラスコーリニコフ=666=反キリスト」説が論議されたことがあった。
主人公ラスコーリニコフのフルネームは、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ《Родион Романович(Романыч)・Раскольников》である。語義は順番に「祖国」「ロマノフの」「叩き割る」、つまり、「ロマノフの祖国を叩き割る者」という意味になる。
ま、ここまでは常識的な解釈である。
江川卓氏の解釈はもっと凄い。三つの頭文字はいずれも‘Р’(エル ローマ字のRに当たる)で、「РРР」を上下反転させると「666」に見える。
これは「ヨハネ黙示録」において反キリスト、悪魔を示す数字(獣の数字)と呼ばれるものだ。数秘術ゲマトリアで、そういうことになっているのだそうだ。
僕はロシア語がさっぱり分からないので何とも言えないが、少なくともラスコーリニコフが反キリスト的な存在として構想された事は間違いないだろうと思う。
さらに殺された金貸しの老婆は市井の善人というわけではない。その描写がすごい。悪魔の化身、悪魔の従者としか思えない。
一回目の訪問の際、老婆の頭の描写にこんな箇所がある。
彼女のひょろ長い頸は、にわとりの脚に似ていて、それにはフランネルの布切れのようなものが巻きつけられていた
江川卓訳
骨張った細長い頸を表現したのだろうが、これはさすがに異様である。老婆というよりも、魔性の存在を思わせる。
江川卓氏はこう書いている。
ロシアでは子供にもおなじみの魔女にババ・ヤガーがいる。森のはずれの一軒家に、前述したように「ひとりぼっちのひとりきり」で住んでいて、「ヘンゼルとグレーテル」の魔法使い同様、やはり人食いの悪者である。むろん、「むきだし髪」であることは言うまでもない。ところが、このババ・ヤガーの住居が、なんと「にわとりの脚」の上に建っているのだ。おかげでこの住居は、くるり向きを変えたり、移動も思いのまま、まことに便利である。ドストエフスキーの突飛な比喩の源泉が、無気味であると同時にどことなく滑稽な、このおとぎ話のイメージに求められることは、ほとんど疑いがないように思われる。
江川卓『謎とき「罪と罰」』
なるほど。
金貸しの老婆はババ・ヤガーなのだ。
さらにもう一つ注意しなければならない重要なポイントがある。それは『罪と罰』の「罪」とは何かということだ。
ロシア語には「罪」に相当する言葉が二つある。「プレストゥプレーニェ」と「グレーフ」である。日本人の僕らが罪と言って想起する単語は「グレーフ」の方だ。人間として恥ずべきことをした、神に告解しなければならない、贖罪しなければならない──というのが「グレーフ」である。
一方『罪と罰』に使われているのは───続きはオンラインサロンでご覧ください)