特別公開:ドストエフスキー講義 05 最終回 モデルを設定したキャラクターメイキングの秘密 山川健一

あなたも是非、完全なフィクションを書く場合でも、「モデルの設定」を頭の片隅に入れておいてほしいのだ──

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「私」物語化計画 2021年4月9日

特別公開:ドストエフスキー講義 05 最終回 モデルを設定したキャラクターメイキングの秘密 山川健一

ドストエフスキーについては、先週で最後にしようと思ったのだが、もう一回だけ書かせてください。わが生涯、ドストエフスキーについて書くことなど、もうあまりないと思うので。

注目したいのは、ドストエフスキーのキャラクターメイキングにおいて、どうもモデルになる人物が具体的に存在するケースが多かったのではないかという事だ。あなたも是非、完全なフィクションを書く場合でも、「モデルの設定」を頭の片隅に入れておいてほしいのだ。

これには、ドストエフスキーに固有の事情がある。

彼は1849年、社会主義者グループ「ぺトラシェフスキー会」メンバーとともに逮捕され、シベリアのオムスクで懲役刑になり、1854年に出獄している。だがすぐに兵役になり、1859年にようやく兵役解除となり、10年ぶりにペテルブルクに帰って来るわけだ。こうして作家活動を再開したわけだが、常に官憲の監視がつき、著作物も検閲された。

そこでドストエフスキーは、「主人公が作家の思想を担う」という従来の方法を捨て、「複数の人物たちがそれぞれの思想を担う」という新しい方法論を編み出すのである。

こうしておけば当局に「民衆を煽るこうした危険思想は甚だ遺憾である」と文句を言われても「いえいえ、それは主人公のラスコーリニコフの思想なのであり私自身とは何の関係もありません」と言い逃れすることができる。

特に五大長編ではそうなのだが、かなりの人数に上る登場人物がおり、彼らの思想は彼ら独自のものであり、それを書いた「私」とは関係ないものなのです──という言い訳が成立するようにしたわけで、とりわけ『悪霊』などではこれが有効だった。

【ポリフォニックな構成が可能にしたカーニヴァル的な面白さ】

初期のドストエフスキー論で有名なのはミハイル・バフチンのドストエフスキー論だろう。

バフチンは、『罪と罰』は「1. 推理小説として筋を楽しむ」「2. 思想について深く考察する」以外に、「3. カーニヴァル的な明るさを読み解く」という立場があると言っている。

『「私」物語化計画』の皆で『罪と罰』を読み、語り合うのは、まさにカーニヴァル的、バフチン的な姿勢なのです。

バフチンは同時に、ドストエフスキーの小説内には、作者自身の意見をそのまま反映する思想が語られているのではなく、それぞれに矛盾・対立する複数の思想が共存している、とした。

このような特徴を、バフチンは「ポリフォニー」(重層的)という用語で説明している。

バフチンが指摘した複数のそれぞれ独立した思想の共存は、自己の思想を小説で描いたトルストイのオーソドックスな手法とは対照的な姿勢である。小林秀雄は「ドストエフスキーの小説ほど思想を語った小説はない」としている。

それは官憲による検閲の目をごまかすためだったのではないか、と僕は思うわけだ。

『罪と罰』が発表された当時、ロシアでは「まったく新しい心理小説が登場した」と絶賛され、ドストエフスキーはサイコロジストだと言われた。しかし、そうではなかったのだ。

ドストエフスキーはラスコーリニコフの「鋏で他の人々から切り離された」ような孤独は、19世紀のどのような人々にも起こり得る精神的な状況だとした。それは21世紀においても同様だろう。

 

【『罪と罰』のモデル達】

《ラスコーリニコフ→普通の青年》

『罪と罰』において作家自身にいちばん近いのはやはりラスコーリニコフだろう。この主人公は、「超人思想」の持ち主だとされている。

しかしラスコーリニコフの「超人思想」は表向きの看板である。彼は自分はナポレオンのような選ばれた天才(超人)だと信じ、そういう人間にはくだらない他の人間を殺すことも許されるという考えにとりつかれる。

今ここで社会の害悪のような金貸しの老婆を殺したとしても、奪った金で法律家になり将来多くの貧しい人々を救済できるのなら、社会全体にとってそのほうが有益だ、というわけだ。

これが「超人思想」なのだが、こんな薄っぺらな思想を作家自身が信じていたとは到底考えられない。小説をわかりやすく面白く、さらに重層的にするための1枚のカードが超人思想なのだ。

しかしそのコアにあるのは、キリストにさえ見放された完全な孤独である。この作家はニーチェより35年も前に

「善悪の彼岸」について思考したのだと僕は思う。

ラスコーリニコフは、自らの超人思想に退屈している。だからこそ犯行にいたるわけだし、思想はここではたいして重要ではない。この思想がラスコーリニコフという個性の中でどう生きるか、作家がそれをどう捌くかということが大事なのである。

ラスコーリニコフのモデルは、当時のロシアにはごく一般的に存在した普通の青年だろう。その容貌や仕草等は、作家自身の身近にいた青年がピックアップされたのだろう。この普通の青年に超人思想を与えることから、小説の中心をなす殺人事件が生まれた。

 

《スヴィドリガイロフ→父親》

ニヒリズムの権化のようなスヴィドリガイロフは、ずいぶん乱暴にあっさり自殺する。しかしラスコーリニコフは、自殺することさえ許されない孤独に苛まれていた。

ラスコーリニコフのモデルになる青年は、ドストエフスキー自身であり、繰り返すがそんな青年は彼の周囲にたくさんいたに違いない。

しかしスヴィドリガイロフの方は───続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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