特別公開:緊急講義4 クライムノベルは何を達成できるか? 『安息の地』におけるプロット構築の問題 山川健一
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『クライムノベル(推理小説などを含める)の構造的な大きな特徴は、犯行を冒頭に持ってくるか結末に配置するかを書く前に選択をしなければならないと言うことだ。
前回は『歓喜の歌』を素材に、変則的ながら犯行を冒頭に持ってくるパターンを紹介した。
今回は結末に犯行が配置される『金閣寺』パターンを僕の『安息の地』を書いた経験から紹介したいと思う。』
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「私」物語化計画 2019年6月21日
特別公開:緊急講義4 クライムノベルは何を達成できるか? 『安息の地』におけるプロット構築の問題 山川健一
クライムノベル(推理小説などを含める)の構造的な大きな特徴は、犯行を冒頭に持ってくるか結末に配置するかを書く前に選択をしなければならないということだ。
前回は『歓喜の歌』を素材に、変則的ながら犯行を冒頭に持ってくるパターンを紹介した。
今回は結末に犯行が配置される『金閣寺』パターンを僕の『安息の地』を書いた経験から紹介したいと思う。まず「目次」を見ていただこう。
一章 誕 生
二章 覚 醒
三章 犠 牲
四章 腐 蝕
五章 犯 行
六章 結 末
目次を見ていただくだけで、物語の最後で「犯行」が描かれることがわかるだろう。
『安息の地』は作家として僕の何度目かの転機になった七二七枚の長編ノンフィクションノべルだ。現実に起こった犯罪を取材して描いた小説で、自分自身のことではなく、高校教師一家に実際に起こった事件を取材して書いたものである。
もちろんどんな小説も、恋愛小説やファンタジーやライトノベルでも、現実と言うものに錨を下ろしているものだ。現実がなければ小説を書くことはできない。
しかしそういうレベルを超えて、僕は『安息の地』では、現実の事件の謎を解き明かそうと試みたのだった。新聞やテレビの報道、法廷での証言等の言葉では解明することができない人間の胸の奥底に潜む謎を解明したいと願った。
そのことに、僕がクライムノベルを書くことの意味があった。
何故、両親は二十三歳の息子を殺さなければならなかったのか。どこにでもある高校教師一家に芽生えた小さな憎悪が、やがて世間を揺るがす惨劇となって結実してしまったのは何故か。
一九九二年六月四日、埼玉県浦和市の高校教師の夫(54)と妻(49)が、息子(23)の家庭内暴力に困り果てた末、自室で寝ていた息子を出刃包丁などで約10回刺すなどして殺害した。
息子は四日午前八時前、アルバイト先から帰宅。ビールを飲んで暴れ出したため、妻が近くの実家に避難し電話で高校にいた夫を呼び出した。
二人は連れだって帰宅したが、「このままでは家庭が滅茶苦茶になる」と夫が息子を刺し、妻が抵抗する息子の頭をモデルガンで殴った。
二人はその後、自宅から110番通報し、駆けつけた浦和署員が現行犯で逮捕した。
息子は県立高校を中退した後、大学入学資格検定に合格して都内の私立大学に進んだが、中退する。
その後、アルバイトをしていたが、女性との交際がうまくいかないことから酒を飲むと暴れ出すようになった。つまりインポテンツでセックスすることが出来なかったのだ。
夫と妻は息子の粗暴な言動に戸惑いながらも、彼を自立させようとしたが、家庭内暴力はひどくなるばかりで「万策尽きた」と殺害を決意したのである。
以上が報道された事件の表側のストーリーだが、この事件は先頃起こった元農林水産事務次官が練馬区の自宅で長男を殺害した事件に酷似している。
この作品が純文学なのかエンターテインメントなのか、僕にはよくわからない。自分にとっての「文学」を書いただけだ。
そして文学にできる仕事の一つは、人間の心の中で起こる不可思議なドラマを解明することだ。したがって『安息の地』を書く際、可能な限りフィクションは排し、作家としてのイマジネーションは現実のフラグメントをかき集め「動機」を解明することにだけ費やそうと決めた。
それが基本的な方法論である。
僕は保釈中の両親に会いに行き、アルバイト先の焼肉屋も取材し、殺された息子さんが通っていた立教大学に足を運び、慣れない取材を続けた。そうすることにより犯罪の核心に迫ろうと努力した。
この小説は幻冬舍から刊行されたのだが、すべて入稿した後、休暇をとって瀬戸内海の島に行った。
最初の表題は『イサクの結末』というもので、ゲラも装丁もそれで進行していた。しかし、島の海を見ていたらこのタイトルはないなと思うようになった。あまりにもキリスト教っぽいし、有島武郎の『カインの末裔』を想起させるので『安息の地』に変更したのである。
というわけで、この作品は現実に起こった事件を取材して描いたクライムノベルである──という事は、ストーリーを考える必要はないということだ。もちろんディテールは考えなければいけないが、真ん中を通るメインのストーリーラインは「両親が家庭内暴力を振るう長男を殺害する」というシンプルなものだ。
僕が考えなければならなかったのは、ストーリーではなく「動機」である。殺された息子が家庭内暴力を振るう動機、両親が息子を殺さなければならなかった動機を考える。それも、ジャーナリズムや法律の用語ではなく、文学の言語によって考える。
この小説を書いたときに、僕はまだナラトロジーを知らなかった。冒頭部分、きちんと物語の構造を踏襲しているだろうか。
少し長いが、おっかなびっくり引用します。
《はじめは、漆黒の闇のなかにいた。やがて闇の端が微かな青味を帯びはじめ、中心にガーネットのような紅い輝きが見えてくる。そして、雨垂れか、足音のような規則的な音。重力はなく、玲を包んだ液体は生温かかった。周囲が少しずつ明るくなってくる。青味はやがてオレンジへ、ピンクへと色を変えていく。幾層にも重なった色彩の海のなかで、十七歳の藤井玲は歓喜の涙を流す。涙の滴は輝きながら海へ広がっていき、玲は指をしゃぶる。
いや、これは夢などではなく記憶なのだと、玲は頭の隅で考える。体の奥に鮮やかな記憶が眠っていて、だからこそ自分は同じ夢を何度でも繰り返し見るのにちがいない。
記憶のなかの出来事は羊水のなかで終了するわけではなく、さらにつづく。
窮屈な思いをしながらずり下がっていき、とうとう眩しい光のなかへ出る。明るいのに、とても寒い。そう感じた瞬間、喉の奥が爆発し、いきなりなにか冷たいものが胸のなかに流れ込んできた。
弾かれたように目を覚まし、玲はベッドの上に起き上がる。目覚まし時計の秒針が動く音がくっきりと聞こえた。両肩が朝の冷気にさらされ、冷えきっている。戸の隙間から朝日が洩れ入り、天井をひと筋朱く染めている。
薄暗がりのなかの玲の顔は、まだどこか幼さをのこしながらも端正で、意志の強さを感じさせる。髪は天然パーマで僅かにカールしており、真っ黒というわけではなく、茶色がかっていた。
玲の部屋は、一階の奥にある。閉め切ったドアの隣りは八畳ほどの細長いリヴィングで、さらにその向こうの台所から、包丁が俎板を小刻みに叩く音が聞こえている。台所は冷え切っているだろうに、してみると母の整子はあれから起き出し、二階の部屋に戻り、いつものように誰よりも早く起きたのだ。
祖父の食事をめぐって、昨夜夕食の時に父が母に少しばかり小言を言った。年寄りは牛肉など口に合わないのだから、魚を焼いてやってはどうか、と。母は一応了承し、祖父の喜久夫のためにアジの開きを焼いたのだ。だが案の定夫婦と下の弟の床がのべられた寝室に入ってから言い合いがあったらしく、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。ドアが開き、リヴィングの明りが射し込み母が部屋に入ってきた。
──もう、嫌になっちゃう。
乱暴に布団を引き剝がし、パジャマ姿の母が玲のベッドに潜り込んでくる。
──やめてくれよ。
慌てて端に寄り、ひとつ舌打ちもして半身を起こし、だが母の目には涙が滲んでいる。仕方なく口をつぐみ、彼は再びベッドに横たわったのだった。
規則的に吐き出される母の息の匂いを感じた。子供の頃外出した折などに、母はよくハンカチを唾液で濡らし、玲や二人の弟達の口の周りの汚れを拭ったものだ。その度に感じた独特の匂い。あの匂いは、たった今間近にある母の口から吐き出されている息の匂いと同じだった。
玲が中学生の頃まで、母は嫌なことがあると彼のベッドに潜り込んできた。そのことが、玲を動揺させ自尊心を傷つけた。だが玲のほうも、かなり大きくなるまで母の隣りでしか眠れなかったのだ。彼女は義父の喜久夫だけではなく、近所に一人住まいしている実母の喜美の面倒まで見なくてはならない。いつも頭脳明晰な夫の陰になっている。そんな母を、玲は哀れに感じていた。
起き上がり、リヴィングへ行こうかと思うのだが、体はまだ目覚める前に見ていた夢の感覚のなかにあった。》山川健一デジタル全集 Jacks eBook (以下同)
物語の冒頭で「欠落」を提示する必要がある、と僕は繰り返し述べてきた。『安息の地』の冒頭でそれが実現されているだろうか。
主人公の抱える欠落とは、母親から自立した一個の個人であることだ。母親の側の欠落は、ちゃんと子離れした母親として息子に向かい合う姿勢である。つまり、それぞれ自立性が欠けている。
良かった。ちゃんと「欠落」が、母子の肉体感覚として提示されている。
この冒頭のシーンは、実は結末部分で描かれる「犯行」の伏線にもなっている。
犯行のシーンからの引用である。
《甲高い叫び声をあげながら、藤井はふらふらしている玲の首筋を狙い包丁を振りかざした。首は外れ、だが頰から顎にかけてがスッパリと切れ、白い脂肪が花びらのように開いた。もう一度首を狙おうとすると、玲がその場に崩れ落ちた。腹や胸から、血が噴きこぼれつづける。
藤井を見上げ、弱りきった声を出した。
「許してくれ……悪かった。お願いだから、殺さないで……くれ」
包丁を持つ手が血でぬるぬるする。右の手のひらをズボンにこすりつけながら、藤井は荒い息をする。玲が口から血の泡を噴いた。
怒鳴り声とも叫び声ともつかない声が、息子を見下ろす藤井の口から漏れた。
「今じゃもう遅いんだよ! 親を親とも思わないような人間は、親の手で殺してやる!」
今度こそ心臓に、藤井は両手で握り直した包丁を……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)