特別公開:ストレッチ3 恋愛とはなにか

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今回の講義は、「ストレッチ3 恋愛とはなにか」。

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「私」物語化計画 2018年11月30日

特別公開:ストレッチ3 恋愛とはなにか

今回は恋愛について考えてみたいと思う。

世にある小説のほとんどは恋愛小説か犯罪小説である。

なぜか?

人間というもののいわば精神上のピークが、恋愛と犯罪にあらわれるからだ。

小説にとって、恋愛とはとても重要なモチーフだし、実際の生活においてもそうだろう。

あなたの恋人が、

「愛しているよ。君しかいないんだ」と言ったとしよう。

ほんとか?

嘘かもしれない。他に女がいるかもしれない。

恋愛でなくても、たとえばお母さんが、

「おまえのためを思って言ってるんだよ。あの男はよくない。結婚なんてとんでもない。別れなさい」と言ったとしよう。

それも、ほんとか?

娘が嫁に行くと自分が困るからそう言っているのかもしれない。若く美しく、今まさに女性として花開こうとしている娘に嫉妬してそう言っているのかもしれない。

大切な人のどんな言葉も、嘘かもしれないと疑ったほうがいい場合があるということだ。

現実の生活では、ぼくらは「ほんとうのこと」を知ることができない。相手を信じていたのに──という苦い思いを、ほぼすべての人達が経験しているのではないだろうか。

 

だが三人称で書かれた小説では、すべての登場人物が「ほんとうのこと」を言う。そうでなければ小説は成立しない。ドストエフスキーの長編小説など、10人以上の登場人物の本音が語られるのだ。考えてみれば、これはすごいことだ。

映画や演劇やテレビドラマでもなんとか「ほんとうのこと」を表現しようとしているが、たとえば恋愛の当事者である一組みの恋人同士がどんな経緯でどんなことを考え、何を感じ、それぞれの未来を選択したかということを表現する上で、言語で記述された小説以上に有効なメディアはないのだ。

小説は工学的な構築物なので、たとえば「なぜ別れることにしたのか」という心情がちゃんと書かれていなければ成立しない。ある瞬間それを決意したのだとするならば、読者が納得できる的確な描写が必要なのだ。

小説とはこの世界で唯一「ほんとうのこと」を知ることができる装置なのである。こいつは希有な、ほとんど唯一無二の仕組なのではないだろうか。

失恋したと深刻な顔で大学のぼくの研究室に相談しにやって来る男子学生には「アンドレ・ジッドの『狭き門』を読みなさい。愛していると言いながらなぜ彼女が去ったのかよくわかるよ」とアドバイスし、女子学生には「ヘルマン・ヘッセの『知と愛』を読みなさい。知を断念して愛欲と放浪の生活を送る男子の気持ちがわかるよ」と言って文庫本をプレゼントすることにしている。

ジッドとヘッセ、何冊買ったかな?

 

学生達がジッドやヘッセで納得できたかどうかは、じつのところ定かではない。彼らはもっと入り組んだ現代を生きているのだから。

たとえば共依存という概念がある。これは小説を書く上でも実生活を営む上でも重要な概念なので本編で詳しく書くつもりだが、一言でいえば「他者に必要とされることに、自分の存在意義を見出す」という精神的な状態のことだ。

共依存の概念は、1970年代の後半にアルコール依存症の臨床で発見された。アルコール依存の克服には、依存者同士のグループセラピーなどとともに「家族からの隔離」が不可欠であることがわかった。アルコール依存症をめぐる人々のなかに「依存者の世話をすることに依存している人」がいるということがわかったからだ。

こうした関係性を断ち切らなければアルコール依存は克服できない。

共依存は親密で特別な関係の上にしか成立しようがない。

もちろん、共依存はアルコール依存症だけの問題ではなく、男女の恋愛関係や家庭内暴力、引き籠もりの場合にもよく観察される。

ダメ男とばかりつき合う女の人とか、悪女としか思えない女にばかり惹かれる男の人とか、周囲にいませんか? 共依存かもしれないよなぁと思いながら、僕らは「蓼食う虫も好き好きだからな」と暖かく見守るしかない場合が多い。

恋愛ってものは複雑でむずかしく、だから魅力的なのだろう。こういう関係をちゃんと描ければ、魅力的な小説を仕上げることができるだろうと思う。

 

かつて『幸福論』(2007年/ダイヤモンド社)という本でぼくは、「あなたの心のなかには多くの扉がある」と書いたことがある。

ひとつの扉を、あなたは毎日のようにひらいたりとじたりしているのに、もうひとつの扉は生まれてからまだ一度もひらいたことがない。

扉の向こうには、誰かがいて、何かがある。つまり、世界ってものが存在する。すると、一度もひらかれたことがない扉の向こう側の世界を、まだあなたは知らないことになる。扉をひらきさえすれば、手で触れることができる世界があるというのに。

扉の向こうにあるのは「物語」だ。新しい物語が広がっているのである。

新しい物語に出会い、1年間が経過し、ふと気がつくと自分は変わっていた。そういうことはよくある。

小説を読むように、あるいは小説を書くように、自分の恋愛を物語化してみること。ナラトロジーの講義の時に「隠された秘密の発見」というお話をする予定だが、自分自身の恋愛の秘密がどこにあるのかを知ることが、きっと二人の関係をさらに強い絆で結んでくれるはずだとぼくは思っている。

 

ここで小説からいったん離れ、恋愛の話題にさらに突っ込もう。

女の人は恋愛する時、自分が美人かブスかということをとても気にする。もちろん、両親から受け継いだDNAの問題は整形手術でもしない限りどうすることもできない。

だが、男は案外もっと別の角度から見ているものである。

肌がきれいか荒れているか。生き生きとした表情をしているかどうか。似合った髪型をしているか。太っているかふっくらしている程度か、痩せているのか痩せすぎか。甘ったれた話し方なのか、語尾を濁さない凛々しい話し方か。

そもそも、話の内容は?

会う度にネガティヴなグチを聞かされるのか、明るい気持ちになれる話をしてくれるのか。今継続している恋愛に充足していれば、グチなんか言わないはずではないか。

ディズニーランドでデートして別れた。

2泊3日の旅行に行って別れた。

その直後、もしも心が満たされていると感じることができたなら、あなたはいい恋愛をしているのだ。そうではなく、別れた直後にもう淋しいと感じるのであれば、自分の恋愛は共依存的な恋愛関係なのではないかと疑ってみる必要がある。

相手は今夜他の誰かに電話するかもしれないとか、今夜一人で眠るのは苦しいとか思ってしまうのは、恋愛によって精神が充足していない証拠ではないだろうか。

別れた直後に「すき」だから、またすぐに会いたいと感じる。それは「すき」だからではなく、「淋しい」からにすぎない。一日24時間ずっといっしょにいたいと願う。それも「すき」だからではなく、信頼できない相手を「監視」したいだけなのかもしれない。

 

男の場合、ハンサムかブ男かという以上に社会的な成功者かどうかという点が恋愛における評価基準になる場合が多い。

でもなぁ、とぼくは思うのだ。

女も男も、その内側にどんな豊かな物語を抱えているかということが大切なのではないだろうか。

どんな美意識を持っているのか。

どんな哲学を生きていく上での規範にしているのか。そもそも規範とすべき哲学を身につけているだろうか。

好きな音楽は?

ユーモアのセンスは?

そうしたことのすべてが集まって、一人の女、一人の男ができあがるのだ。

長年にわたる小説家としての人間観察の結果ぼくが得た結論をお伝えしよう。それは、彼女あるいは彼が、自信をもっているかどうかということが大切だということだ。

もちろん、すべての面で自信を持つ必要なんてない。そんな人間は存在しない。なにかひとつだけでいいから、自信を持てるものがあること。

なぜか?

自信を持つということはすなわち、自分を愛してあげるということだからだ。

自分を愛することができる男女だけが、心の底から恋人を愛することができる。つまり、思いやりのある優しい人間になることができるのだ。

すべてに自信がないのは、自己嫌悪のかたまりになっているということだ。自分自身でさえ大嫌いな人間を、誰が愛してくれるだろう。あなただけは決して、あなた自身を見捨ててはならないのだ。

それがスタートラインである。

さて、自分だけは決して自分を見捨てないと誓えましたか?

それでは次に、自分を客観的に見て、どういう部分を伸ばしていけばいいだろうか。それを考えてみる。なにが欠けているか。それも考えてみよう。

 

ときどき、本も読まないし映画も観ないし、とりたてて好きな音楽といえるものもないという人がいる。他人から見ると、こういう人はのっぺらぼうで、つかみどころがない。話していても、のっぺらぼうでは彼の心の深い場所に言葉が届くとも思えない。そこで、敬遠したくなる。

いろいろな人に敬遠されると、一人ぼっちになってしまう。

読書したり映画を観たり、音楽を聴いたり絵画を見たりするのは、とりもなおさず「私」を物語化しているということだ。シンプルに言えば知性を鍛えるということだ。すべての人間は知性的な存在なのだし、あるいは知性的であるがゆえに人間なのだ。

走ったり泳いだりするときにも、人間は動物のように本能だけで体を動かしているわけではない。動物には「スポーツ」なんて概念はないのである。

人間が走る行為、泳ぐ行為。さらにセックスしたり笑ったりするのもすべて、知性的な行為なのだ。

どういう部分を伸ばしていけばいいか。

なにが欠けているか。

これは、知性的な意味でどこを伸ばせばいいのか、なにが欠けているのかという意味だ。自分を客観的に観察し、どんな知性の扉をひらけばいいのか考えてみることが大切です。

 

ところで、若い人にはわかりづらいかもしれないが、出会いはかならずしも未来に起こるとは限らない。丁寧に生きている人ほど、過去に向かってひらいている扉を見つけるのが上手だ。

ここに長い年月にわたり愛し合った男女がいるとしよう。

だが別れることになり、今夜は最後の食事をするためにレストランに入った。もうさんざん喧嘩した後なので、しみじみと思い出話をすることになる。

「あの映画、忘れられないわね。あの結末、あなたも泣いてたよね?」

彼は、不思議そうな顔をする。

「えっ、そんな映画観たっけ?」

「渋谷で観たじゃないの。レイトショーへいって、帰りにハンバーガー食べたでしょ」

「ああ、そんなこともあったね……」

彼の記憶が呼び覚まされていく。その映画の結末をくっきりと思い出して、また涙ぐんだりするかもしれない。その時彼は、きっとこんなふうに考えている。

「こいつと別れるということは、こいつの記憶のなかの俺自身とも別れるということなんだな」

人は、もちろん肉体を持った生き物として物理的に生きている。

だが同時に、人生は瞬間の積み重ねとその連続なのであり、いわば記憶そのものがぼくらの人生であるとも言える。

自分でも忘れていた過去のあなたが、誰かの記憶に鮮やかに刻み込まれているということがある。

そういう人達こそが、あなたにとってかけがえのない人達なのだ。

しかも人は、何重もの意味を同時に生きている。

あなたにとって、家族や友人や仕事仲間を合わせて10人の大切な人達がいるとすれば、10通りのあなたが存在するということになる。

そのすべてが、かけがえのないあなた自身なのである。

それはつまり、10の扉を通した10の過去が存在するということだ。

家族や友人や仕事仲間を大切にするということは、彼らの記憶に刻み込まれたあなた自身を大切にするということでもあるわけだ。

そんなふうに、過去を見せてくれる扉の向こうにも素晴らしい物語が広がっている。

もちろん、決してひらきたくない、たとえば幼児期の扉もあるだろう。人はある場合には、忘れることによって生き延びることができる生き物なのだ。

いずれにしてもぼくらの人生は、連続した意味のある時間の積み重ねによってできているのだということを知るべきだと思う。あたかも、小説のように!

おっと、都合よく話が小説に戻ってきた。

思い出。記憶。過去。

それはいま現在を幸福に生きるために、欠くことのできない大切なものだ。だからこそぼくらは、ゆっくり、丁寧に生きていく必要があるのだと思う。

そして、一人称でしか恋愛できないぼくらが何とか「ほんとうのこと」を知りたいと願う時、三人称で書かれた小説の方法論を身につけるのが最も有効な方法なのだとぼくは思う。それこそが「私」物語化計画だ。

 

渋谷のレイトショーで観た映画の話のつづきである。

そうか、と彼は考える。こいつと別れるということは、こいつの記憶のなかの俺自身とも別れるということだな、と。そして彼女にとっては、俺の記憶のなかの彼女自身を失うということなのだ、と。

そんな勇気が二人にあるだろうか?

「別れるの、よそうか?」

彼はそう切り出すかもしれない。

小説はいつだって過去についてのさまざまな出来事が記述されている。近未来を舞台にしたSFだって、その時点での過去が綴られているのだ。

恋愛にしても同じかもしれない。未来にあらわれる恋愛ではなく、今の恋愛でもなく、過ぎ去ってしまって今はもうここにない恋愛のほうが尊いのかもしれない。

一人称で立ち向かうしかない恋愛と三人称が可能な小説は構造すなわち方法論こそ真逆だが、そいつが抱える本質は近似している。

小説と恋愛とは──と今あらためてぼくは思う──驚くほど似ているではないか!

 

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