特別公開:ストレッチ2 物語は大きく、小説は小さい

次代のプロ作家を育てるオンラインサロン『「私」物語化計画』会員用Facebookグループ内の講義を、一部公開いたします。

先週公開された第一回に続く、第二回となる講義は「ストレッチ2 物語は大きく、小説は小さい」。

『「私」物語化計画』講義内容特別公開

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「私」物語化計画 2018年11月23日

特別公開:ストレッチ2 物語は大きく、小説は小さい

ぼくらは「物語」や「小説」という単語を、あまり深く考えずに使っている。ふたつのものを、研究者でもない限り明確に分けていないということだ。ちなみに日本語の「分ける」と「分かる」は同じ漢字を使うが語源も同じで、どうやら人間は分けないと理解することが出来ないらしい。

仕方がない。最初に「物語」と「小説」を分けておこうか。
このオンラインサロンの目的は「自分を探す」ことと「小説を書いてデビューする」ことなので、それを前提にここは強引にいくしかないだろう。

物語という言葉は非常に広い範囲に適応されていて、幼児が体験した出来事を母親に報告するのも、昔からの伝承の一部始終を語るのも、あるいはそれこそ古代オリエントの『ギルガメシュ叙事詩』もインドの『マハーバーラタ』も、西洋文学のスタートに位置すると言われるホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』も、日本の『伊勢物語』や『源氏物語』も物語だ。

ギリシア神話もケルトの神話も聖書も、『桃太郎』もみんな物語だ。
特定の事柄の一部始終を「意味」という糸で縫って誰かに語るもの。それが物語である。

皆さんが書く「小説」も「物語」に含まれる。小説は近代以降に発明された物語の一つのカテゴリーなのだ。

ぼくらは幼児の頃から誰かに語り続けることにより、漠然とした出来事に意味を与え、物語化することで自分を理解して来た。これはストレッチ01でも触れた通りで、ここまではいいだろうか?

では物語の一つのカテゴリーである「小説」とは何か?

それは、特定の事柄の一部始終の「意味」を縫うことを神様任せにせずに、「自意識」で貫く作品だということだ。おっと、そこで引かないように。「自意識」というと難解な哲学みたいだが、そこは本編でちゃんと分かりやすく説明するので警戒しないようにね。

東北芸術工科大学の文芸学科で、学生が持って来た作品を読み、ぼくはよく、

「これはまだ単なるお話であって小説になってないよ。はい、書き直し」などと言う。

これをもう少し詳しく説明すると、エピソードを並べるだけでは小説にならないということだ。

複数のエピソードを「自意識」で繋ぐ事でそれらは初めて小説になっていく。「自意識」と言うのが難解なら、「私」でもいい。それがまだ難しいと言うなら、深い悲しみや切なさ、反抗心や憎しみ、恐怖といった感情や感覚でもいい。

小説を仕上げて新人賞に応募したが予選で通らなかったとか、友達に読ませたが不評だったとか、そんな時によく言われる感想に、

「話の筋は通っているけど何が書きたいのかよくわからない」というのがある。

あなたにも、そんな経験がないだろうか?

ぼくは23歳でデビューしたので担当編集者はみんな年上で、何が書きたいのかよくわからないと頻繁に言われ、その度にしおらしい顔で反省したフリをしながら、内心では、

「おまえに分からないだけだよ。時代は変わったんだよ」と思っていた。

もちろん、今は本気で反省している。

何が書きたいのか分からないという感想を平たく翻訳すれば、

「悲しみ(切なさ、反抗心、憎しみ、恐怖)の彫りが浅い」ということなのだ。

あの頃、年上の編集者の誰かがそう教えてくれれば、ぼくはあれほどまでに反抗心を剥き出しにしないで済んだのになと思う。

分かりやすい具体例をあげよう。

昔話の『桃太郎』の主人公が、鬼ヶ島に鬼退治に向かう。吉備団子をもらった犬と猿と雉が家来である。さて、いよいよ船に乗り込み、決戦の地に向かう。昔話(物語)ならこれでOKだが、これを小説にする場合、このままでは読者は納得してくれないだろう。桃太郎が鬼ヶ島に向かう「動機」が説明されていないからだ。

犬を主人公にした場合、吉備団子ごときの報酬で命をかけるのかよ、どんなブラック企業だよ──という話になるだろう。動機、自意識、「私」、村が鬼に襲撃され続けていることへの激しい憎しみといったものがあってこそ、桃太郎は小説の主人公になり得るのだ。

お分かりいただけただろうか?

物語というものはとても大らかな存在だが、小説というものは物語というカテゴリーに所属しながらピンポイントで小さな文学形式なのである。

ぼくらが「私」を物語化する時にも、事情はまったく同じだ。

最初は幼児がお母さんに1日の出来事を報告するように語ればいい。しかし思春期になり恋愛し、ライバルが現れ、恋に破れ──というような展開になっていった場合、それを物語化するには小説の方法論を適応するしかない。悲しみ(切なさ、反抗心、憎しみ、恐怖)の彫りを深くしていくしかないのだ。

このことについてはかつて出版した『イージー・ゴーイング』というエッセイ集に、悲しみ上手になることが大切だよという意味のことを書いたことがある。えーと。あのエッセイをスタッフに頼んで別枠でアップしてもらうことにしよう。同じことを別の切り口で書いたものなので。

ところでこの講義テキストを書く前に、スタッフの強い要請があり、内容紹介のムービーを撮影した。「紹介ムービーは1カ月に1本ぐらでいいじゃないの?」と言うぼくに「いや、やはり毎週お願いします」と彼らは主張するのだ。そこで先に撮影したムービーを自分で見返しながらこの原稿を書いているわけだが、なんと! ジョン・レノンとミック・ジャガーについてのエピソードを紹介すると言っているではないか。

マジかよ。

ストレッチにしては長くなりすぎるような気もするが、予告した以上仕方ない。

ジョンとミックの話を書きます。

ぼくが出版社に依頼されて、ジョン・レノンかミック・ジャガーをモデルに長編小説あるいはロック評論を書いてほしいと依頼されたとする。どちらが簡単だと思いますか。迷うことなく、ジョンのほうが簡単なのだ。なぜか。ジョンは既に逝ってしまった人で、ミックはまだ生きているからだ。

物語とは、茫漠とした現実のエピソードを意味で繋いでいくものだが、これを因果と言う。

リヴァプールという、荒くれ者の船乗りと彼らがのこした私生児が多い社会の最底辺の場所で生まれ、悲惨な幼少期を過ごし、同じような環境で育ったポール・マッカートニーと出会ってやがてビートルズを結成する。世界的なスターになったジョンが歌ったのは「愛と平和」だった。

これがジョンの物語だ。

経済的にも両親からの愛情という意味でもわりと恵まれた少年時代をダートフォードで過ごしたミックは大学時代にキースと再会し、ローリング・ストーンズを結成してビートルズにつづいた。彼が歌ったのは「血と暴力とセックスとドラッグ」で、ミックはその頃、悪魔の申し子だと言われて叩かれまくった。

あれ?

なんで?

反対みたいではないか。

ここに表現のパラドックスがある。

パラドックスというのは逆説という意味で「それって反対じゃん」というような意味だ。もっとも卑しい者がもっとも高貴だとか。

イギリスという階級社会の最底辺から出てきたジョンやポールが「血と暴力とセックスとドラッグ」を歌うのでは、シャレにならないというか、彼らは最底辺だったからこそ希望を歌ったわけだ。

そして重要なことは、ジョンは既に亡くなってしまったので、彼の生涯を意味という糸で縫っていき小説化することが可能だということだ。「愛と平和」という希望を信じたジョンはボディガードをつけることもなくニューヨークのスタジオからダコタハウスへ帰り、そこで熱狂的なファンに射殺され、近くにいたFBIは止めようと思えば止められたのにジョンを見殺しにした。

FBIにとっては「血と暴力とセックスとドラッグ」よりも「愛と平和」のほうが脅威だったのである──というようなストーリーを構築することができる。

だがミック・ジャガーがモデルだとこうはいかない。なぜなら彼は今もツアーをやっていて──つまり生きていて、終わってはいないからだ。ミックの足跡を意味の糸で繋いで小説を書いても、明日の、現実の彼が楽々とそれを裏切るに決まっている。

ぼくも皆さんも、まだ生きている。今日好きだったものが明日は嫌いになっているかもしれない。もっとも愛している人を、明日は避けるようになっているかもしれない。

あるいは、自分としては今でも世界でいちばん愛しい人に避けられるようになっているかもしれない。

え、なんで?

理由がわからないんだけど?

これは「エピソードとしては理解できるが魂の深い部分では納得できない」という意味であり、「物語的には分かるが小説的には理解できない」ということだ。

しかし、生きていくとは、そういうことだ。

それをビビッドに記述するのが小説なのであり、そこに小説というピンポイントで小さな文学形式の困難さがあるのだとぼくは思っている。

物語は大きく、小説は小さい。しかし小さいからこそ小説は無限の可能性を秘めている。「魂の深い部分では納得できない」という気持ちを描くのが小説なのだ。ドストエフスキーもスタインベックも、谷崎潤一郎も太宰治も、そうやって小説を書いたのだ。

ぼくらは自分の内側に棲んでいる桃太郎に、言わなければならない。

桃太郎よ、立ち上がれ!

怒りを持って戦い抜け!

それこそがすなわち小説を書くということなのであり、「私」を高度なレベルで物語化するということなのである。

■蛇足ながら感想を一言。かつて新聞連載をやったことがあるが、あれは毎日締め切りがあった。このオンラインサロンは毎週で、新聞連載の次に大変かな。毎週金曜日の配信で、今日はもう水曜日。風邪も引けない。「大丈夫かよ、おれ?」とちょっと不安。本編の方は書かなければならないことが決まっているのだが、ストレッチの原稿は難しい。Facebookグループに何か書き込めとスタッフに催促されているのだが、講義テキストを書くだけで今のところ精一杯です。そのうち書き込みますので、ちょっとお待ちください。

 

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