特別公開:ストレッチ1 物語には始まりと終わりがある

次代のプロ作家を育てるオンラインサロン『「私」物語化計画』開講にあたり、会員用Facebookグループ内の講義を一部公開いたします。

記念すべき講義の第一回は、「ストレッチ1 物語には始まりと終わりがある」。

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「私」物語化計画 2018年11月16日

ストレッチ1 物語には始まりと終わりがある

本編の講義に入る前に、ストッレチをやりたいと思う。コンサートの前に、キース・リチャーズはギターのチューニングをするだろう。ヴォーカルのミック・ジャガーは? ストレッチをする。それと同じです。

ちなみにミックとキースというのはぼくが10代の頃から強い影響を与えてもらってきたローリング.ストーンズのヴォーカルとギターで、ぼくが今も最も尊敬している人達だ。このサロンの講義でも、きっとまた触れることになると思う。

このオンラインサロンの目的は2つ。「自分探しの旅」の地図の役割を果たすこと。そしてもう1つは「プロの作家を育成すること」だ。2つは別々のことのように見えて、じつは同じ1つのことなのだ。物語の力がそれを可能にする。最初のストレッチでまずはそれを理解してほしいと思う──ということでスタートしよう。

物語の構造を分析する研究をナラトロジーと言う。物語論のことだ。ナレーターというお馴染みの言葉は物語を語る人という意味で、同じ語源だ。

ナラトロジーを研究した本はたくさん出版されていて、ぼくももちろん全部を読んだわけではないけれど、その概要は今後のオンラインサロン本編の中で「私を理解する上で役に立つ物語論」「小説を書く上で参考になる物語論」という視点で絞って解説します。

ナラトロジー自体は、ウラジーミル・ヤコヴレヴィチ・プロップ(1895年4月29日 – 1970年8月22日)というソビエト連邦の昔話研究家が創始者なんだけど、プロップの分厚い本を読むだけでたいへんで、みなさんはそんな専門書を読む暇なんてないだろうしその必要もない。

プロップ以外にも多くの人達による多くの本が出版されているように、ナラトロジーは複雑な構造を持っているのだが、知っておいて欲しい物語の構造の基本は「始まりと終わりがある」ということだ。どんな物語にも終わりがある。単純なようで、ここに重要な秘密がある。

ところで、物語の「物」ってどういう意味か知ってますか? 「物」とは、魂や霊のことだ。物の怪、物のあはれ、物寂しい、物音。ぜんぶそうだ。すなわち物語とは、異世界に耳を澄ますということであり、死者の国と交信するという意味です。

言葉が発達したから物語ができたわけではなく、物語を作るために言語が発達した。そもそも言葉は音声が最初で、文字というものができる前から物語は存在したのだ。それだけ人間は太古の昔から異世界、死者の国、あるいは死というものに囚われていたということだ。人間が死ななければ、物語も小説も「自分探しの旅」も必要がない。

つまり、終わりがなければ物語は成立しないし、必要ともされないということだ。

繰り返すが、いちばんシンプルで簡単な物語論とは、物語には始まりと終わりがあるということなのだ。

もう一つ重要なのは、小説というのはとりもなおさず「私」を記述するものだということだ。純文学だけではなく、エンターテイメント、推理小説や時代小説やライトノベルやファンタジーだって同じです。

例えば私小説とは対極にあるように思える、自分とは全く関係がなさそうに思える主人公を設定した小説の場合を考えてみよう。

イギリスの作家J・K・ローリングのあまりにも有名な「ハリー・ポッター」の主人公は少年だ。つまり男であり子供だ。作者の方は大人の女性だ。ローリングにとって小説の主人公は「私」たり得るだろうか? 答えは、「すべての登場人物がローリングの分身だ」ということになる。

ハリー・ポッターばかりではなく、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニーから悪の化身のようなヴォルデモートまでローリングの分身なのだ。

誰かが誰かの伝記を書く場合だって、モデルになった人物はモデルその人でありながら、主人公は伝記作者の分身なのだ。

なぜか?

それは、小説には描写が必要だからだ。

批評や論文には描写なんて必要ない。しかし、描写のない小説はただのあらすじにすぎない。子供の頃転んで膝をすりむいた時の感じ、夜の森の気配、海の匂い。悲しかったこと、腹が立ったこと、ちょっとばかり嬉しかったこと。誰かと出会った喜び、別れなければならなかった切なさ。そうした多くの感覚が僕らの記憶に眠っており、描写とはそんな無意識領域が作者にくれる手紙のようなものだ。手紙を読み、作者は主人公が体験することを描いて行く。

書き手が大人の女性で主人公が少年であろうと、作者は無意識領域に眠る記憶をフルに呼び起こしながら描写していく。すると結果的に、登場人物の全てが作者の分身になっていくのだ。そうならない小説は駄作だってことだよね。

これは本編で詳しく説明する予定だが、小説とは工学的構築物であるという側面を持っている。つまり、緻密に設計され創造された建築物のようなものだという意味だ。たとえば殺人事件が起これば犯人の動機を論理的に説明しなければならないように。

ところが描写は無意識領域との対話から紡ぎ出されるものなので、時々、工学的でなければならない小説に揺さぶりをかける。そこが、実は読む時にも書く時にも小説のいちばん面白いところなのだとぼくは思う。

小説とは「私」を記述するものだとぼくは書いた。

もう一つ、物語には始まりと終わりがあるとも言った。

この両方を実現しなければならないのが、むずかしいところなのだ。
なぜかと言うと、「私」はまだ終わっていないからだ。まだ終わっていない「私」について書きそれを終わらせなければならないから、小説はむずかしい。

では、どうすればいいのか?

それを解き明かすのがこのオンラインサロンにおけるぼくの任務の一つなのだが、方法の一つは描写で終わらせるというパターンだ。神話や旧約聖書のように過去の出来事を記述するのではなく、自分の身の回りに起こったささやかな事柄を素材に描くのが小説というものだ。

時の流れのどこかに切れ目を入れて小説が始まり、紆余曲折があり、それらを読者が納得できる描写でしめる。

描写とは無意識領域からの手紙みたいなものなので、不気味な感じで終わる小説だってあるだろう。それでいいのだと、ぼくは思っている。

「自分探しの旅」と「プロの作家を育成すること」の両方にもっとも有効な方法は、ノートをつけることだ。メモ程度でも構わない。

言葉は相手に何かを伝えるという機能をもっている。子供が学校であった出来事をお母さんに伝える。子供は言葉を使うことによって、学校であった出来事を物語化して母親に伝えているのだ。

体育の授業でドッジボールをしていたら突き指し、泣きそうになったら友達の涼夏ちゃんが保健室に連れて行ってくれ、校庭に戻ったら先生に「勝手にいなくなってはいけません」と叱られた。また泣きそうになった自分を涼夏ちゃんはかばってくれた。あの子はやっぱり大切な友達だ──というような出来事だ。

その時、子供自身は同時に自分自身にも「学校であった出来事」を物語化して理解することになる。

言葉で相手に何か説明する時、ぼくらはそれを自分自身にも説明しているのだ。日記のようなノートをつける時、人は自分に自分自身のことを説明している。それが「物語化」するということだ。そして物語はその属性として「終わり」を求める。言い方を変えれば、混沌とした現実を解析して意味を求めるということだ。

言葉を発すれば発するだけ、「私」の輪郭はクリアになって行くだろう。ぼくらはその時、「私」を少しばかり強固にすることに成功しているのかもしれない。

つまりそれが、自分を探すということだ。

わかっていただけただろうか?

言葉によって自分を物語化すること以外に自分を探す方法はないのだ。

ノートを描き続けることによって「私」を物語化できてきたら、そこで初めて小説を書いてみよう。

物語には始まりと終わりがある。そして「私」は小さな物語の集積で出来ているはずで、それを見分けることが出来た時、ぼくらは初めて小説を終わりにすることができる。

描写のスキルを上げることと自分自身の中にある小さな個別の物語を発見していくこと。それが、まだ生きている「私」についての小説を終わらせる方法なのだとぼくは思っている。

このオンラインサロンでは「私」を物語化するレッスンを毎週やるわけだが、やがて物心ついてから今に至る、自分の地図が手に入るはずだ。それは小説家デビューのためのレッスンであるのと同時に、たとえば愛の問題やビジネスや子育てにも役に立つはずだ。

※小説が工学的構築物であるという側面については、本編で詳しく説明します。

 

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