キャラクターメイキングの技術を磨く 2 結末からプロットを書く「グランド・イリュージョン」という方法 山川健一
最高に面白かったなぁと思いながら、ふと気がついた。この #映画 の #プロット は結末から構想されているなということにである──
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「私」物語化計画 2022年1月14日
特別公開:キャラクターメイキングの技術を磨く 2 結末からプロットを書く「グランド・イリュージョン」という方法 山川健一
【『罪と罰』と『金閣寺』】
小説を書く方法は、無限にある。作家によって異なり、さらに同一の作家の複数の作品は全て別の方法で書かれている。そんな無限の具体例から方法論を抽出するのは至難の業だが、やってやれないことはない。
小説には、「工学的な構築物」という面と「芸術的なエモーションの発露」という側面がある。小説は建築物のような構造、工学的な構造を持っている。これを解明する最強のロジックがナラトロジーである。そのナラトロジーも、時代の進行と共に新しくなる具体的な作品に対応するように変化してきている。
もう一つは「芸術的なエモーションの発露」という側面であり、いちばん手っ取り早く感情の表現を実現するためには、キャラクターを際立たせることである。つまり、適切なキャラクター・メイキングができないと主人公の感情は表現できないということだ。
そしてキャラクターはほとんどの場合、あなたの内側からやってくる。そのことを忘れてはいけない。
キャラクター・メイキングの観点から、さらに小説が工学的な構造を持っているという観点から、作品の結末をまず考える方法論を身に付けてほしい──ということをこの連載で書いていく。
まず、『「私」物語化計画』で「書き出しの現象学」と命名した(…って僕が勝手に名付けただけですが)方法論の復習をしておこう。
小説には何を書いてもいい。インモラル──背徳的な世界を描いてもいい。さらにどこから書いてもいい。
しかし、最初の1行を書くと、2行目は1行目に拘束されることになる。2行目で、1行目と全く関係のないことを書くのは「工学的な間違い」なのである。
広い草原に、一見の家がぽつんと立っている。それを空からの視点(神の視点)で描いてもいい。レンズがクローズアップしていき、庭で少女が花を見ている、その小さなブラウスの背中を描写する。
現実ではありえないそんな展開で小説をスタートさせても良い。
しかしその次のシーンで、全く関係のない事は書けないのである。草原の中にたった一軒家の向こうには断崖絶壁があり、その向こうには真っ青な海が広がっている──というように展開させていかなければならない。
縁側に並んで座った老夫婦が、色づいてきた柿の実を眺めているシーンから書くとする。その次の行は一行目を受けなければならないので、例えば隣の住人が和菓子を持ってやってきた、というような展開にならざるを得ない。男は女を抱き寄せ強引に唇を──というのは無理なのだ。
1行目は芸術的な側面の表現なのであり、何を書いても良い。しかし1行目を書いてしまった後は、丹念に工学的な構築物を制作していくつもりで、その作品が持っている論理を決して裏切らないように書き進めなければならない。
そのようにして一章ができあがる。
二章は一章に記された言葉の全てに拘束されることになる。五章は四章までのすべての言語に拘束されることになる。
作家はやがて長い小説の最後の1行を書き記すことになるわけだが、最終行は、それまでに書いたすべての言語に導かれ、それ以外にはないという1行になるはずである。
作品を締めくくる最後の言葉は、作家が書くわけではない。作品自身が最後の1行を決定するのである。
つまり小説を書くという行為は、任意の1行からスタートし、これ以外にはないという必然の1行にたどり着く長い旅なのだと言える。
これが「書き出しの現象学」という方法論である。
多くの作家は、さらに多くの作品がこの方法論によって書かれている。代表的でわかりやすいのはドストエフスキーの『罪と罰』である。あの作品には──
── 中略 ──
【「グランド・イリュージョン」という方法】
僕が皆さんに学んでほしいのは、もちろん「書き出しの現象学」というオーソドックスな方法で『罪と罰』のような小説を書いてほしいということだが、レッスンとして、「結末」を明確に設定してから冒頭部分に向けてプロットを作っていく方法を身につけてほしいのだ──続きはオンラインサロンでご覧ください)