特別公開:現代文学の構造分析2 『ジジきみと歩いた』(宮下恵茉)は神話のように美しい 山川健一
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『誰もが癒しがたい傷を抱えて生きている。そして誰もがやがて死ぬ。どうせ死んでしまうのに、なぜこんなにも苦労して生きていかなければならないのか。ふとそう考えたときに、小説というものが生まれるのだろう。
いつも言っているように、「私」を物語化することの中から小説は生まれる。そして、僕らも世界に向かってメッセージを発信しなければならないのだ。
「ぼく、もう、だいじょうぶだよ!」』(未公開部分講義本文より)
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「私」物語化計画 2019年4月5日
特別公開:現代文学の構造分析2 『ジジきみと歩いた』(宮下恵茉)は神話のように美しい 山川健一
はじめに書き記しておいた方がいいと思うので書くが、初めてこの小説を読んだ時、僕は泣いた。この原稿を書くために何度か繰り返し読んでいるのだが、やはり涙をこぼしそうになってしまう。
小説の「概要」を書く時、感動したとか好きな作品だとか泣いてしまったなんて事はどうでもいいので書かないように──と僕は常々言っているのに、大いなる矛盾である。
困った。
きっと宮下恵茉さんは、泣きながらこの小説を書いたのだろう。しかし豊かな感情を胸に抱えながら、冷静に作品の構造を意識していたに違いない。そうでなければ、一本の小説を完成させることなど不可能なのだから。
僕も冷静にこの小説を対象化し、構造を分析し、なぜこんなにも深い悲しみと希望をこの作家が書き得たのかを明らかにしなければならない。
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物語の前提となる「欠落」は、こんな表現で明確に示される。
《もうレジぶくろなんて、いらないのに。》
《こういう時、思い知るんだ。
もう、ジジはいないってことを。》
レジぶくろとは、ジジを散歩させる時に必要だったものだ。だがそのジジはもういない。ジジの不在を「レジぶくろ」というありふれた「物」で表現している。先週も書いたが、これはとても大事なことだ。
冒頭近くで同時に「禁止」についても触れられている。新しいマンションが立つたびに、小学4年生の少年たちはその敷地内にできる公園を楽しみにしているのに、どの公園にも必ず注意書きの看板が立てられるのである。
《この公園でのボール遊びを禁ず》
川が流れており、しかしその河原で遊ぶことも禁止されている。しかし主人公たちは、禁止を犯してボール遊びに通うのである。
野球を簡単にしたボール遊びをする中で、少年たちは年老いた犬と出会う。やがて犬を自分たちで飼うことにする。これが「橋守」を倒してルビコン川を渡るエピソードに相当する。
野良犬を飼うことにする──それは取り立てて奇異なことではなく、ありふれたことに過ぎない。しかし一度犬を飼えば、その犬が死ぬまで愛情と手間を注がなければならないのである。少年にとってそれはまさに「ルビコン川を渡った」と表現するのが適当な事実だろう。
旅立ちを遂げた少年を待ち受けるイニシエーションでは、野良犬だったジジを散歩に連れて行ったり、脱走したジジを探し回ったり、獣医に連れて行ったり、仲間同士4人で世話をするはずだったのに2人が脱落してしまう、といったエピソードが重ねられていく。
主人公の翼の家には、父親が不在である。翼が1歳ぐらいの時に病気でなくなり、運送屋を営む祖父と母親との3人暮らしだ。
お父さんがいればいいのに、と翼は時々思う。それがこの小説における「隠された父の発見」と「秘密の開示」につながっていく。
物語の秘密は最初、友人の次のような一言で暗示される。
「母ちゃんが急にデキスギと一緒じゃダメだって言うんだから、しょうがないじゃん。」
デキスギというのは翼の親友の来生くんで、小ざっぱりした身なりをしている優等生だ。勉強ができるから、翼の祖父も母も彼を歓迎している。だが実は──この原稿は皆さんが既に『ジジきみと歩いた』を読んでいることを前提に書くので、未読の方はこの先を読まないでいただきたいのだが──デキスギの父親は……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)