特別公開:現代文学の構造分析1 『電気ちゃん』(楠章子)が乗り超えたプロットの枠組み 山川健一
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『今回は、小説におけるワールドモデル(世界観)とは何かということについて考えてみるために、楠章子さんの『電気ちゃん』の構造を分析してみようと思う。この作品は現代小説である。児童文学が多い楠さんにとっては、むしろ珍しい作品なのかもしれない。児童文学は…』
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「私」物語化計画 2019年3月29日
特別公開:現代文学の構造分析1 『電気ちゃん』(楠章子)が乗り超えたプロットの枠組み 山川健一
今回は、小説におけるワールドモデル(世界観)とは何かということについて考えてみるために、楠章子さんの『電気ちゃん』の構造を分析してみようと思う。
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この作品は現代小説である。児童文学が多い楠さんにとっては、むしろ珍しい作品なのかもしれない。
児童文学はわかりやすいストーリーのように見えて、実は抽象度が高い。フィクションの度合いが深いという意味だ。『電気ちゃん』は現代小説なので、抽象度が低い分リアルである。リアルに書かなければならない、というのがこの小説のワールドモデルなのである。
物語の前提となる「欠落」を、可能なら具体的な物で最初に提示すべきである──とこれまでの講義原稿で僕は書いてきた。この作品の場合はどうだろうか。
冒頭部分を引用する。
《葡萄の粒、全部ぬり終わらないままになってしまった。》
主人公の鳥子は、幼稚園の頃お絵描き教室に通っていた。赤と青の絵の具を混ぜて、パレットにはきれいな紫色が作れていた。だが耳の奥で重たい音が響き、葡萄の絵どころではなくなり教室を飛び出すのだ。
これが『電気ちゃん』の欠落を示すエピソードである。
色がぬられていない葡萄の絵。
具体的な事物で、作者は物語の前提となる「欠落」を表現している。見事と言うほかない。欠落はこんなふうに示さなければならない、というお手本のような冒頭だ。
音は鳥子を支配し続け、両親は娘をいくつもの病院に連れて行くが原因はわからなかった。16歳の夏、鳥子は家出する。
こうしたシーンの背後に、読者である僕らは色が塗られていない葡萄の絵を無意識下に思い描いている。そういう効果を、一枚の絵という具体的な事物が実現している。
淋しいとか悲しいとか、腹立ちが収まらないとか、世界に対する違和感を抱いているとか、そんなことをいくら書き並べても一枚の絵の存在にはかなわない。
会員の皆さんも、小説の冒頭近くで「物」によって欠落が表現できないかどうか、工夫してみてください。
次に、主人公が最初に倒す弱い敵、「橋守」とは何だろうか。これはシンプルに両親だろう。娘を心配してくれている両親を置き去りにして彼女は家出する。両親は弱い存在だが、彼らの愛情を裏切り家出してしまった以上、主人公はルビコン川を渡ってしまったのだ。
それが巧みにと言うか、高度な技法で表現されている箇所がある。
もう戻らないと決めた主人公が、今頃家ではいなくなった自分のことを話しているのだろうかと考えるシーンがある。
この小説は三人称なので、普通は娘のいない家庭で両親と姉が会話するシーンをリアルタイムで書けば良いのである。しかし、『電気ちゃん』は……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)