特別公開:キャラクターメイキング編 主人公とバディ 山川健一

キャラクターとは何だろうか。メイキングと言うからにはそれを作るわけだが、どうやって作ればいいのだろうか──

次代のプロ作家を育てるオンラインサロン『「私」物語化計画』会員用Facebookグループ内の講義を、一部公開いたします。

ご興味をお持ちの方は、ぜひオンラインサロンへご参加ください

 

『「私」物語化計画』

→ 毎週配信、山川健一の講義一覧

→ 参加者募集中→ 参加申し込みフォーム

 

「私」物語化計画 2020年7月31日

特別公開:キャラクターメイキング編 主人公とバディ 山川健一

黄金のキャラクターメイキングである。

まだ原稿は書かなくて良い段階だし、作家にとっては夢のように楽しい、すなわち黄金の時間である。

まず、キャラクターとは何だろうか。メイキングと言うからにはそれを作るわけだが、どうやって作ればいいのだろうか──というところから始めたい。

 

【モダニズムとポストモダンのキャラクター】

キャラクターという概念は、小説にだけ存在するわけではない。今ではこの言葉を聞くと、むしろアニメーションやゲームといったジャンルを思い起こす人の方が多いかもしれない。

これらのジャンルでは、キャラクターは作品を離れて、商品として消費されることも多い。アニメーションがゲームになったり、ゲームがアニメーションになったりプラットフォームが移行したりもする。

人気のあるキャラクターはフィギュアになったり、チョコレートになったり、カードになったり、多くのコスプレイヤーたちは自分自身でキャラクターを演じる。

『「私」物語化計画』の中にもコスプレイヤーたちがいらっしゃいます。写真を見せてもらうと、なかなか手が込んでいる。

二次創作と言われる、既存のアニメやゲームのキャラクターを使用した小説やマンガもコミケなどでたくさん流通している。

アニメやゲームの世界には、キャラクターデザイナーと呼ばれる職業も存在する。ゲームやアニメーションの原案を考えるチームと、そのビジュアル、つまり絵柄を作る人が分業しているわけだ。ハリウッド映画もそのように作られているはずだ。

こうした現代的な作品におけるキャラクターと、僕らが書く小説のキャラクターとは同じものだろうか?

もっとわかりやすく言うと、今のアニメやゲームのキャラと、たとえば田山花袋の『蒲団』の主人公は同じ存在なのだろうか。

結論を書いてしまうが、これは同一のものである。

さらに言えば、キャラクターデザインはキャラクターメイキングの一部である。

キャラクターはあくまでも物語と、すなわち「私」と決して切り離すことの出来ない存在なのだ。それが僕の考え方だ。

最先端のアニメーションやゲームでも同じだ。複数の人々の手によってそのキャラが設定されていたとしても、その複数の人たちの「私」の刻印が必ずあるはずなのだ。それが物語の構造というものであり、当たり前の話だがアニメーションやゲームも物語なのである。

アニメーションやゲームやハリウッドの映画は、複数の人間が入念なリサーチをして、キャラクターが作られ、その作品には巨費が投じられる。チームごとにディスカッションがあり、様々な可能性が考慮され、多くのアイディアが吸収され、一つのキャラクターが作られる。もちろんこれまでに成功した他の作品のキャラクターメイキングも参考にされるだろう。

それらを組み合わせることで新しいキャラクターが作られる。

一方、田山花袋の『蒲団』の主人公はおそらく花袋の分身であるだろう。だからこそ当時、女の弟子に邪な恋心を抱くなど、ましてそれを小説にするなんて不謹慎だと大騒ぎになったのである。

ハリウッド映画の主人公は新しく、花袋の私小説のキャラクターは古い? ハリウッド映画のキャラクターは平板で作り物みたいだが、花袋の作り出したキャラには血が通っている?

あなたの意見はどうですか。

キャラクターは今や膨大なデータのコンピュータ的な組み合わせにすぎない、という考え方もある。あるいはその反対に、きわめて固有な経験がキャラクターを生むのだと頑固に考える人もいるだろう。

こうした相反する考え方を突き詰めていくと、人間とはどのような存在かという命題に突き当たる。

人間には固有な体験と経験があり、つまり固有な「私」の存在が作品化されたのが芸術であるという考え方があり、いやいやもはや「私」にはオリジナリティなんてないという考え方もあるだろう。

モダン(近代)とポストモダンのせめぎ合いである。

時の流れを正確に表現するのはアナログな機械式の時計であり、デジタルウォッチは決して正確な時の流れを表現することができない、と考えている人もいる。

いやいや、究極的には同じだと主張する人もいる。

ヒーローや鬼、「女子高生」や「ゲーマー」はあくまでも属性であり記号であり固有な存在ではないというのがポストモダンの考え方であり、一人の女子高生やゲーマーの内部には固有な喜びや悲しみが存在するのだと考えるのがモダンとしての価値観である。

あなたが書く小説のキャラクターが「私」という固有性の反映なら、そこにはオリジナリティが存在することになる。これがモダニズムである。しかし新しいキャラクターに見えてもそれは無数のパターンの組み合わせだと考えるならばオリジナリティなど存在しないことになる。それがポストモダンだ。

本当のところどうなのかという事は僕にもわからないが、実際に小説を書こうとする立場の皆さんは、これら2つのメソッドを共存させれば良いのだと僕は思う。ハイブリッドでいく。

文学や芸術の問題としてどちらが正しいかということは、きっと今後も誰にも分からないだろう。

 

【モダニズム的な方法で3つのキャラクターを作る】

ここで実践的な話に入る。

キャラクターを作る前に、漠然とでもいいからワールドモデルを考える。箱がなければ役者は演じることができないからだ。

次にこの世界で動くキャラクターをまず3人考える。主人公と観察者と敵対者である。

前の講義に即して言うならば「行為者」「認識者」「敵対者」でもいい。

これをあくまでも「私」を分割した分身として構想する。つまりモダニズムでやるわけだ。

何度か解説したが、物語は──続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

→ 毎週配信、山川健一の講義一覧

→ 参加者募集中→ 参加申し込みフォーム