『カラマーゾフの兄弟』から学ぶこと 05 悪魔は実在するか? 山川健一
──おっと、ここにも悪魔が一匹いたか。どこまで逃げても、悪魔は僕らを追いかけてくる。──
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2024年2月9日
特別公開:『カラマーゾフの兄弟』から学ぶこと 05 悪魔は実在するか? 山川健一
【だれが人間を愚弄しているのか】
クイーン+アダム・ランバートを東京ドームで観て、帰ってきたところだ。素晴らしいコンサートだった。アダム・ランバートは初来日の際にソロライブを観たことがあるが、クイーンは初めてだった。
冒頭から脱線してしまったが、今週は『カラマーゾフの兄弟』における悪魔の問題である。ではスタートしよう。
この長編小説は神の問題を考えるのと同時に、悪魔の存在を問う作品でもある。
第三編の「好色な人たち」で、父親のフョードルがイヴァンに「コニャックをやるか?」とすすめるシーンがある。
イヴァンはアルコール中毒であるという設定なので、彼がここで酒を飲んだという事実は重要だ。
イヴァンと同じように父親も酔っている。
フョードルが、「神はあるのか、ないのか?」とイヴァンに問いかける。
「ありません、神はいませんよ」
今度は弟の方に聞く。
「アリョーシャ、神はあるか?」
「神はあります」
「イヴァン、じゃ不死はあるのか、まあ、どんなのでもいい、ちょっぴり、ほんのちょっぴりでもいいんだが?」
「不死もありません」
「どんなのもか?」
「どんなのもです」
同じ質問を、またもやアリョーシャにする。
「アリョーシャ、不死はあるのか?」
「あります」
「すると、神も不死もか?」
「神も不死もあります。神の中に不死もあるのです」
「ふむ。どうやらイヴァンのほうが正しいらしいな」
この会話は、『カラマーゾフの兄弟』ではとても有名な箇所である。
フョードルは、神はありやなしやといった問題に精力を注ぎこんできた人間だ。自分は誰かに愚弄されてきたのだと考えて、「じゃ、だれが人間を愚弄しているんだ、イヴァン?」とあらためてたずねる。
「悪魔でしょうよ、きっと」と答えてイヴァンはにやりとする。
「じゃ、悪魔はいるんだな?」
「いや、悪魔もいません」
イヴァンは、神の実在も、悪魔の実在も認めることがない。イヴァンは言う。
「もし神を考え出さなかったら、文明というものもまったくなかったでしょうよ」と。
「コニャックもなかったでしょうね」とイヴァンはつけ加える。
そこへドミートリイがなぐりこんで来る。ドミートリイに向かっていった父親フョードルが、床に叩きつけられる。イヴァンが、兄を両手で抱きかかえ、力まかせに老人からもぎ放した。アリョーシャも心もとない力をふりしぼって、前から兄に抱きついて加勢した。
この一件がなんとかおさまったあと、イヴァンはアリョーシャに耳打ちする。
「畜生め、もしおれが引き離さなかったら、ひょっとすると、あのまんま殺しちまったかもしれないぜ。イソップ爺さんじゃ、手間ひまも要らないからな」
「なんて恐ろしいことを!」とアリョーシャが嘆声をもらす。
「なにが恐ろしいことだい?」
憎々しげに顔をひきゆがめ、あいかわらずのひそひそ声でイヴァンはつづける。
「蛇が蛇を食い殺すだけさ、二人ともそれが当然のむくいなのさ!」
アリョーシャはぎくりとする──。
このシーンは小説にとっては重要だろうが、神と悪魔の問題にとってはプロローグにすぎない。本格的に悪魔が登場するのはもっと後である────続きはオンラインサロンでご覧ください)
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