特別公開:レトリックを身につける3──メタファーとは「新しい見方」であり「意味の変化」である 山川健一

「比喩であることが明示されていない比喩」という定義を超えて、メタファーは曖昧な概念であり、あなたが自分の文章を豊かにしたいと願うのなら、この曖昧さを最大限に活用すべきである──ということを今回はお伝えしたいと思い僕はこの原稿を書いていく。それがいわば今回のテーマだ。

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「私」物語化計画 2020年2月14日

特別公開:レトリックを身につける3──メタファーとは「新しい見方」であり「意味の変化」である 山川健一

隠喩(暗喩、メタファー)は直喩とは異なり、「比喩であることが明示されていない比喩」である。「男は風だった」「彼女は薔薇だ」などの表現がこれに相当する。

「彼女は薔薇だ」ではいかにも稚拙だが、バルザックは「彼女は谷間の百合だった」と書き、『谷間の百合』は世界文学の名作として読み継がれている。

だがそれにしても、「比喩であることが明示されていない比喩」という定義を超えて、メタファーは曖昧な概念であり、あなたが自分の文章を豊かにしたいと願うのなら、この曖昧さを最大限に活用すべきである──ということを今回はお伝えしたいと思い僕はこの原稿を書いていく。それがいわば今回のテーマだ。隠喩には魔法のような効果があるので、狭義な概念に縛られずに是非使いこなして欲しい。

長らく、隠喩は直喩よりも文学的に高尚だと考えられてきた。本当にそうか、という疑問を僕は提示したわけだが、まずは隠喩の曖昧さの謎を解き明かさなければならないだろう。

直喩が文学的にはそれほど価値がないという誤解が生じ、それが今になっても支配的な見方であるのは「……ような」とか「……に似た」「……そっくりの」「まるで」のような、2つの事物を比較する小学生が作文で使うような語句を隠喩は必要としないからだ。

シェイクスピアは「思い知らせてやろう、君の白鳥がただの烏だったと」(『ロミオとジュリエット』)などと書いたが、確かに小学生はこんなふうには書かない。

小学生か中学生なら「思い知らせてやるよ、君の好きな子は白鳥のようにきれいじゃなく、烏みたいにみっともないってことを」と直喩を使うだろう。

直喩を圧縮すると隠喩になる。

あるいは隠喩を膨らませると直喩になるとも考えられる。「君の白鳥」がメタファー、「君の恋人は白鳥のように美しい」が直喩である──というように。

隠喩の定義をいろいろを調べてみたが『ブリタニカ国際大百科事典』の解説は極めて的確である。

 

隠喩 いんゆ metaphor

比喩の一つで、「氷の刃」「彼女は天使だ」のように、「~のような」にあたる語を用いないたとえ。これに対して、「氷のような刃」「彼女は天使みたいだ」などの表現を直喩 simileという。隠喩の目的は、上の例ならば、刃や女性の性質、状態を直喩よりも一層印象深く聞き手や読者に伝えることであり、そのためには、使い古されていない新鮮なたとえが必要とされる。「私は名曲を心ゆくまで味わった」という表現では、「味わった」は本来隠喩であるが、現在では使用が一般化して隠喩とは感じられず、隠喩としては「死んだ隠喩」 dead metaphorであると同時に、「味わう」という語の意味を広くしている。隠喩はこのように意味の変化を引起すことがある。(『ブリタニカ国際大百科事典』)

 

ここでまず注意しなければならないのは、隠喩は必ずしも名詞や形容詞にだけ適用されるわけではないということだ。「味わう」もそうだし、「時が流れる」の動詞、「流れる」も隠喩である。

では、「死んだ隠喩」とは何だろうか。

たとえば業績が悪化した会社で会議がもたれたとする。部長がつぶやく。

「何か打つ手があるはずだ」

この「手」は隠喩だ。いや、かつては隠喩だった。どんな辞書にも、肩や腕などの人間の肉体としての部位としての「手」だけではなく「手」とは「しかた。方法」という意味もあるのだと書いてあるだろう。

すると「明白なつながりはない2つのものを比較する表現」としての比喩には相当しないことになる。『ブリタニカ国際大百科事典』のこの項目を書いた方はとても優しい人物だと見えて「語の意味を広くしている」と補足している。

まさに隠喩は意味の変化を引き起すことがあるのと同時に、不断に革新されていかなければならないのだ。打つ「手」のように、僕らの目の前には隠喩の死体が累々と積み重なっているのである。えーと、この「死体」はまだ隠喩と言えるのだろうか? 「すし詰め状態」「団子レース」「マシンガントーク」などは隠喩と言うよりはもはや定型句である。

 

一組の男女が口論しているとしよう。夫婦である。夫は嫌気が差して妻に背中を向ける。妻は夫に「いっそ死んだら?」のような強い言葉を放つ。

これを直喩と隠喩で書いてみる。

《妻の言葉がナイフのように彼の背中に突き刺さった》(直喩)
《妻の言葉のナイフが彼の背中に突き刺さった》(隠喩)

調べてみないとわからないが、「ナイフ」を辞書で調べても今はまだ「鋭い言葉」という意味はないだろう。だとしたら、これはまだ隠喩として成立していると考えてよい。

隠喩は新しい認識をできるだけ正確に反映しようとするレトリック表現なのである。新しくなければ価値はないのだとさえ言ってよい。

この時、何が新しい必要があるのだろうか?

表現が新しい?

もちろんそうだ。しかし文章を飾る方法を新しくするのだと考えるのは間違いだ。つまり、洒落たレトリックをひねり出そうと考えてはいけない。

繰り返すが…..,(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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