特別公開:講義:基礎的な文法の話──日本語の文体とは「語尾」である

かつて文芸評論家の江藤淳が『作家は行動する』という長編評論を書いたことがあるのだが、彼はその本全体を通して「作家は文体で行動するのだ」ということを述べたのだった。
これをわかりやすく解説すると、書き手によって独特なリズム感があるのだということになる。言葉、文章にもリズムやビートというものは存在する。

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「私」物語化計画 2020年1月17日

特別公開:基礎的な文法の話──日本語の文体とは「語尾」である 山川健一

【文体とはリズム感である】

深夜、文芸学科のかつての教え子と電話で話していた。23歳の女性だ。この頃、太宰治を読んでいると言っていた。

「でも、周りの人が、お母さんとかがいい顔をしないんですよね」

「愛人と入水自殺した作家だからな」

「でもすごくいいですよね」

彼女はコスプレイヤーで、最近までFGOというゲームのアルトリア・オルタなどのコスプレをしていたのだが、この頃は「文豪とアルケミスト」で太宰治を演じているらしい。

彼女の従兄弟が高校生で、川端康成と志賀直哉が好きなのだそうだ。小説の新人賞に応募して、結構いいところまでいっているらしい。

「志賀直哉なんてつまらないよな」と僕。

「そうですよね!」

「でも、小林秀雄は一時期、志賀直哉の家に居候してたんだよな」

……というような話をしたのたが、さて、たとえば太宰治と志賀直哉の差異とは何だろうか? ストーリーだろうか。もちろんそれもある。しかし、彼らの小説を5行読めばどちらの作品かわかる。

文学作品の本質的な差異とは、きっと文体なのだろう。

文体──よく語られるが、これほどわかりにくい概念もない。

ぼくがここで言う「文体」というのは、言文一致体や和漢混交体、漢文体などを分類する場合の「文体」ではない。あるいは厳密に言えば、書簡体や会話体といった用途別の区分けでもない。

そうではなく、小説家が独自に持っている雰囲気のようなものだ。曖昧なものだが、これもまた「文体」としか呼びようがない。そして断言するが、読みやすい文章とは読みやすい文体で書かれた文章なのである。

かつて文芸評論家の江藤淳が『作家は行動する』という長編評論を書いたことがあるのだが、彼はその本全体を通して「作家は文体で行動するのだ」ということを述べたのだった。

これをわかりやすく解説すると、書き手によって独特なリズム感があるのだということになる。言葉、文章にもリズムやビートというものは存在する。

谷崎潤一郎はこう言っている。

《或る文章の書き方を、言葉の流れと見て、その流露感の方から論ずれば調子と云いますが、流れを一つの状態と見れば、それがそのまま文体となります》(谷崎潤一郎『文章読本』)

どうでもいい話だが、「文豪とアルケミスト」というゲームのコスプレで太宰治や芥川龍之介は人気があるのだろうが、谷崎潤一郎は無いのだろうな。今度聞いてみよう。

 

行方不明になった主語を救出し、助詞のケアレスミスを訂正し、豊かな接続詞でドラマティックに論理展開する。

その次に大切なのが、文章の全体をつらぬくリズム感、調子、すなわち文体なのだ。

もちろん谷崎潤一郎のように句点「。」をあまり使用せず、読点「、」だけでだらだらつづけていく文章もある。もちろんこれは天才的な小説家が意図的にやっているわけで、僕ら向きではない。

リズム感のある文章を書くには、句点「。」と読点「、」の打ち方に意識的である必要がある。さらにたとえば句点「。」で区切る短い文をいくつかつづけていき、いきなり長い文を持ってくる、というような構成を考える必要があると思う。

〈歩いた。ぼくは歩いた。砂漠の上を歩きつづけた。風を感じて顔を上げると、突然に視界が開け海が広がっているのが見え、今まさに沈んでいこうとする太陽が燃え上がるのを……〉

例文を書こうと思ったのだが、あまりの下手クソさ加減に嫌になったので途中でやめる。やはり文章というものは内面的な必然性があるからこそ書けるのであって、例文なんてものほど荒唐無稽なものはないということだろう。

音楽でいうと「歩いた。」「ぼくは歩いた。」「砂漠の上を歩きつづけた。」のあたりはAメロみたいなものだ。たいしたメロディではなく、むしろギターのリフのほうが大切だったりするのだが、このAメロがないと楽曲はスタートできない。

次にくる長い文が、チェンジであり展開部だ。歌の場合ここはだいたい音域が上がりリフレインになっていて、ヒットする曲はこのリフレインのメロディが印象的なものが多い。

またAメロになり、チェンジを挟み、今度は大サビである。

楽曲によっては、チェンジを冒頭に持ってきてAメロを2回つづけ、もう一度Aメロを入れてチェンジ、大サビで締めるなどというパターンもある。

文章を書く場合は、それほど構成をきっちり決めるわけではないが、メリハリをつけるという意味においては音楽と同じである。

この場合、どこで改行するのかということもきわめて重要だ。『「私」物語化計画』の会員の皆さんの原稿や、藝術学舎の編集者として著者のゲラを読んでいて「改行しないのかな。改行すればいいのにな。改行しろって! 改行しろって言ってんだろうが! お願いですから、ここで改行してください……」というような独り言を、ぼくはいつも言っているような気がする。

こうしたリズム感、ビート感覚、すなわち文体というものは文章を書いては直すという作業を長く積み上げることによって体得するしかないものだ。時には自分が書き終えた文章を音読(声に出して読む)するとか、少なくともプリントアウトして読み直してみるとか、それなりの努力が必要である。

さらに一度獲得したと思った文体も、やがて微妙に変化していくのが普通だろう。それがすなわち「生きる」ということにほかならないのだ。

 

【語尾の選択に注意すること】

日本語の文体を決定するのは、語尾だと言っても過言ではない。

日本語ではそれほど語尾が重要なのだ。「です・ます」調で書くにせよ「だ・である」調で書くにせよ、語尾の選択は文章の全体を引き締めもするし、だらだらとした頼りないものにもする。

まず「……た。」とか「……だった。」、あるいは「……である。」や「……だ。」というような同一の語尾を使いつづけるのは御法度である。新選組なら切腹ものだと心得るべし。

もちろん、「……た。」を意図的につづけて雰囲気を出す、という方法もある。だがその場合は、書き手がそのことに意図的であるべきだ。

日本語の語尾が面倒臭いのは、これは大切な話なのだが、日本語は時制が曖昧だからである。英語なら決して許されない、過去形と現在形の混在が許される。いやむしろ、意図的に過去形や現在形を使い分けなければならない。

〈彼女はドアを開け、部屋の中に入った。コートを脱いでソファの背にかける。その時、チャイムが鳴った。彼がついてきたのだろうか。踵を返し、彼女はドアのほうへ戻った〉

またまた下手な例文ですみません。

あ、ここであえて「申し訳ない」ではなく「すみません」と書いたのは、わりと自覚的なつもりである。「だ・である」調に「です・ます」調が混入するのは原則的には御法度だが、それはあくまでも原則にすぎない。原則などというものは破るためにある。

時々話題を混ぜるのは、エッセイを書く際に僕が入手したカードが1枚なのだ。

例文に戻る。読んでいただけばわかるように、この短い文章は現在形と過去形が混在している。さらに人称さえもぐらついている。「彼がついてきたのだろうか。」の部分だけ、一人称になっていることに気がつきましたか?

日本語表現はこういうことが許されている。だからこそ自由度が高く、自由だからこそ難しいとも言える。

語尾とは…..,(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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