特別公開:インタラクティブな講義──正義、逆説、脱構築、レトリック、 妖精と二人で書く 山川健一

文法の話が続き、皆さんが飽きてしまうといけないので、今回は別の話にします。なんだか国語の授業みたいになってしまっていて、僕としてもちょっと休憩したいので。

今週は皆さんの講義テキストへのコメント欄や、メールでの質問にお答えしたいと思う。

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「私」物語化計画 2019年12月20日

特別公開:インタラクティブな講義──正義、逆説、脱構築、レトリック、 妖精と二人で書く 山川健一

文法の話が続き、皆さんが飽きてしまうといけないので、今回は別の話にします。なんだか国語の授業みたいになってしまっていて、僕としてもちょっと休憩したいので。

 

今週は皆さんの講義テキストへのコメント欄や、メールでの質問にお答えしたいと思う。

 

まず、10月18日金曜日に公開したユニット63の《「文学的正義」はいつも個人/生産性のない弱い側に立脚しなければならない》についてのMさんのコメントです。

 

【平等に「正義」でジャッジメントするべき】

《「トロッコ問題」を聞いて、三浦綾子の「塩狩峠」を思い出しました。主人公は多くの乗客を救うために、自ら犠牲になりました。正義について、これから考えていきたいです。

弱いからすべて正しいわけでもなく、強い側だから、すべて正しくないのではない。平等に「正義」でジャッジメントするべきかな、と思いました。》(M)

 

いいコメントです。

『塩狩峠』はキリスト教の信仰を持っていた三浦綾子さんによる小説だ。三浦綾子さんといえば『氷点』が有名だが、『塩狩峠』 は1968年に刊行された小説で、塩狩峠で明治時代に起こった鉄道事故をベースに、愛と信仰を貫き多数の乗客の命を救うため自らを犠牲にした若き鉄道職員の生涯を描いている。

弱いからすべて正しいわけでもなく、強い側だから、すべて正しくないのではない──というのは大切な指摘だ。そもそも「強い」「弱い」という関係はいつでも逆転し得る。

僕はB.B.キングをはじめ何人かのブルースマンに会ったことがあるが、目の前のこの大きな体のとても強く見える男のどこにあんな繊細で深い悲しみが隠されているのだろう、と思ったことがしばしばあった。

たとえば、45歳の金も地位もある男がいるとする。彼の勤めている会社に高校を出たばかりの女性が入社してくる。彼女は18歳である。客観的に考えれば、男の方が強く、若い女性は組織の中ではか弱い存在だ。彼女の勤務態度などを評価するのも、課長である男の仕事である。

ところがある日、男はこの女性に恋をする。しかし彼には家族があり、告白することができない。そんな事はすべきではないという倫理観を彼は強く持っている。新鮮だが苦しみ多い日々が始まる。

すると、強さと弱さが逆転してしまうのだ。この男は弱々しい存在であり、太陽の下で育ったような若い女性は力強い存在になる。

恋愛に限らず、人間関係における力学の逆転はどんな場合にも起こり得る。それを具体的に、リアルに描くのが小説というものなのである。

 

次はこの話に似ているのだが、メールによる質問だ。

【逆説表現と、脱構築が似ている】

《山川先生、お久しぶりです。先日、山川先生がFacebookの原稿でまとめた、ミラーの内容なんですが、逆説表現と、脱構築が似ているような気がして、頭の中がごちゃごちゃなんですが、どう解釈すれば良いですか?

出発点が違うんでしょうか?

脱構築:排除しないで、対極物に含まれている、同じものを見つめてみよう。

逆説的:真逆に相対していた事物にも、それが入っていて、端的にここに到達した(刑事が、この世界の悪魔なのだ。→罪人を「罪」として罰するため、Nが考えてみました)よ、と示す。

逆説表現が、難しいです

山川先生に「レトリックだ、レトリックだ」って仰ってもらえたので、レトリックは段々馴染めてきた気がするのですが、逆説表現がさっぱりで、困っています。

お時間お忙しいと思うのですが、ご都合付きました時に、お返事頂けたら嬉しいです。》(N)

 

脱構築と逆説とレトリックの関係だが、一見強固な存在に見える「構築物」を不断に改革していく──つまり脱構築していくために、逆説的な表現が必要なのだ。

それが文学という物の構造だ。

念のために言うと、これはあくまでも文学の領域における話だ。まず思想としての「脱構築」について解説する。

 

ジャック・デリダがいった「構築物」の代表的な存在が法律である。たとえば日本国憲法にこんな条文がある。

 

第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 

憲法はわが国における基本的な「構築物」であり、時代の流れとともに脱構築されていかなければならない。

国会が憲法に違反する法律を制定した場合、最高裁は「その法律は憲法に違反しているから無効である」と判断し、この法律を無効にする権限を持っている。これを「違憲審査制」とか、「違憲立法審査権」などと言う。

裁判所は国会を牽制できる仕組みになっているわけだ。

しかし現実問題として、最高裁が国会の暴走を止めた事例なんてあったろうか? ないのである。

 

なぜか?…..,(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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