特別公開:発語の不可能性を乗り超えるために2 山川健一

「今回は「発語以前」の話の続きです。
小説を発語するには、つまり1行目を書くにはどうしたらいいか? 10人の作家がいれば10通りの方法があるだろう。これには2つの側面があるだろうと思う。
物理的な習慣としての方法と、内面に存在する論理的な方法だ」


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「私」物語化計画 2019年11月15日

特別公開:発語の不可能性を乗り超えるために2 山川健一

「隠された父の発見/隠された秘密の開示」は2つに分かれる──と前の講義で触れました。

 

「発語以前」
「発語以降」

 

今回は「発語以前」の話の続きです。

小説を発語するには、つまり1行目を書くにはどうしたらいいか? 10人の作家がいれば10通りの方法があるだろう。これには2つの側面があるだろうと思う。

物理的な習慣としての方法と、内面に存在する論理的な方法だ。

 

【物理的な習慣としての発語の方法】

物理的な習慣としては、かつて吉行淳之介が、消しゴムをカミソリで切り刻んでいくと言う習慣をエッセイで書いていた。消しゴムが半分になり、4等分され──やがて細かな塊になる。そしてようやく1行目を書くと言うわけだ。

毎日午前中から仕事をする作家の場合は、コーヒーとトーストの食事を済ませ、軽く柔軟体操してデスクに向かい、おもむろに書き始めると言うパターンもあるのかもしれない。

僕の場合は、新しく書く小説、あるいは今書いている小説のテーマソングを密かに決める。その曲が小説作品の中に登場するわけではない。自分の中で「この小説のテーマソングはローリング・ストーンズの “Dance” にしよう」と決めるわけだ。

僕は夜型の人間だし、毎日決まった時間に執筆するような律儀なところもないので、大体夜中過ぎに「そろそろ書き始めるか」と思うわけだ。そして、ストーンズの “Dance” を近所迷惑にならない限界の爆音でかける。そいつに合わせて踊る。

恥を忍んで書くが、夏などパンツ一丁になる。そうやってテンションを上げ、テーマソングである “Dance” の気分に自分のエモーションを同調させるわけだ。

行けそうだなと思ったら音楽を止める。

いきなり静寂が訪れる。そして書き始めるわけだ。

音楽を聴きながら書いた事は無い。あくまでも音楽は頭の中で鳴っており、部屋は静かだ。

小説だけではなく、例えばこの連載講義テキストもそのようにして書いている。

あなたにもパンツ一丁で踊り狂え、と強いているわけではない。自分なりのパターンを見つけてほしい。

まず「書く生活」を続けていくことに確信を持つことが大切だ。そして、そのためにどうすれば効率よく書く時間を得られるかを模索してみることが大切だろうと思う。

会員の皆さんの参考になると思うので「私の場合は──」という参考例をコメントしてくださると嬉しいです。

 

【発語の論理的な方法】

物理的な習慣としての方法はかくのごとしで、十人十色である。だがもう一つの、内面に存在する論理的な方法は普遍的で、僕らに先行する過去の作家から学び得るものだろうと思う。

 

1. 集中力を高める

まず大切なのは、集中力を高めることだ。これは何も小説を書く際の発語に限らず、ミュージシャンがライヴする時にも、アスリートが競技に臨む直前も、事情は同じだろう。

小説の場合の特殊な状況は、集中するためには「私」の内面を深く見つめなければならないということだ。

ヘンリー・ミラーの『北回帰線』の翻訳者である大久保康雄氏が文庫の解説で、そのために必要なのは「内面的な凝集力」だと書いている。ミラーにはそれがあった、と。

この凝集力をいかに得るかにも、個々人によって方法論が異なるだろう。ミラーの場合は、若い時に愛読し打ちのめされたランボオとドストエフスキーの間の膨大な距離に苦しみ、自殺まで考え、しかし私見によればフェルディナン・セリーヌの方法論を学ぶことで内面的なカオスに形を与えていったのである。セリーヌにフォーカスすることがミラーにとって内面的な凝集力を高めることになった。

今回はヘンリー・ミラー論ではないので詳細は省くが、機会があればここでヘンリー・ミラーについてまとまった文章を書きたいと思っている。

 

2. 悲しみを純化する

小説というものは、何も問題がない幸福な人生を描く事は少ない。エンターテインメントでも純文学でも、児童文学でも、冒頭には「欠落」がなければいけない──というのが基本だ。つまり満たされていない世界から話を書き起こさなければならないのだ。

しかもこの「欠落」が、作家自身の内面世界に深く関与している方が作品はスリリングになる。

ここが作家のしんどいところである。

文学の世界以外の人に会うと、僕は多くの場合「小説家なのにこんなに明るい人だと思いませんでした」と言われる。自分の軽佻浮薄な部分を反省しなければならないだろうが、小説家と言う人種は、世間的には気難しいと思われているのだ。

何故か?

それは…..,(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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