小説の練習のためにエッセイを書こう 1(小説の作法) 山川健一
エッセイのネタは、自分自身の内側にある。その構造はコラムよりも小説に近い──
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「私」物語化計画 2022年9月30日
特別公開:小説の練習のためにエッセイを書こう 1(小説の作法) 山川健一
前回お知らせしたが、会員のKさんが「ジェノバの夜」のレジュメを(とある出版社の)文学賞(エッセイ部門)に送り、「佳作」になった。
僕としては、「ジェノバの夜」のレジュメを文学賞に応募するという発想がなかったので、驚いた。もちろんとても嬉しかった。
そんなわけで、今回はエッセイの書き方について講義したいと思う。
【コラムとエッセイの違いとは?】
エッセイは魅力的なジャンルだし、小説を書く上での練習になる。読者の存在を強く意識しなければならないからだ。
小説の場合は、「不特定多数の人たち」とか「視えない他者」に向けて書く。作品が公表されて感想の手紙やメールが届くようになれば別だが、それまでは読者の存在はほとんど忘れられている。
だから僕は「推薦作」のコーナーを重要視しており、アンソロジーを出そうとしているわけだ。
読者の存在はとても大切で、ここに1冊の本があったとしても、誰も読まなければそれは単に紙の塊である。誰かが手に取り、読んでくれて初めて、小説はメディアとして機能するのである。
エッセイの場合は小説よりもはるかに強く、読者の存在を意識しなければならない。文体にもよるが、ごく自然に読者に語りかける感じになっていく。これはとても良い練習になる。
僕の個人的な感覚では、文章には「呼びかける文書」と「内省する文書」があるのだろうと思う。小説には、もちろんその両方が必要なのだ。
さらに小説だけが一人称か三人称かを決めなければ書き出すことができない。フィクションではない文章、広い意味でのノンフィクションはあらかじめ一人称で書くと決まっている。
このカテゴリーで僕らに身近なのはエッセイとコラムである。
ところで、あらゆる文章は「具体性→抽象性」という方向で、分類できる。
人間がいて、彼が出会う「世界」というものがある。
僕の周囲でこんなことが起こったんだよ、という「世界」の出来事を誰かにシンプルに伝えるのが記事だ。たとえば「コスモスの花が咲いたよ」という小学生の報告が記事の基本である。
大人にとっては、こんな事件がありました──という新聞記事が記事の典型だろう。
これを論理的に展開していくと抽象性が高くなり、コラムや論文や批評になっていく。エモーショナルにするとエッセイになる。
客観性を大事にしたのが論文や批評への道で、主観性を大切にするのがエッセイへの道だ──続きはオンラインサロンでご覧ください)