特別公開:キャラクターメイキング編 腹を空かせてるってことは罪じゃないのさ 山川健一
あなたにとっての空腹とは何か──
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「私」物語化計画 2020年8月7日
特別公開:キャラクターメイキング編 腹を空かせてるってことは罪じゃないのさ 山川健一
先週、「主人公とバディ」では【モダニズム的な方法で3つのキャラクターを作る】という章を設け、「行為者」「認識者」「敵対者」を設定する──というところまでいった。
これをあくまでも「私」を分割した分身としてモダニズムで構想しなければならない。
【ユングのシャドウ】
今週は「敵対者」について考えてみよう。
物語とは主人公がイニシエーションを経て成熟に向かう時間軸を描くものだ、と考えることも出来る。つまり主人公が自己実現していくのが物語である。
それを共に実現しようとするのが「バディ」であり、これは後日解説するが「援助者」もまた存在する。
ここで「負の自己実現」に向かおうとするのが「敵対者」である。
これはユングの元型でいうシャドウ(影)に近い。
ユングによるシャドウとは、社会的に認知された自己の意識的人格と正反対の特徴と価値基準を持つ元型のことだ。今まで無意識に抑圧してきた受け容れ難い人格として現れる場合が多い。
影というくらいだから、今の自分とは全く折り合わない価値体系や正反対の人格の傾向を持っているわけだ。
ただし、シャドウが絶対的な悪というわけではない。今までの自分が無意識的に目を背けてきた生き方、認めたくなかった価値観をシャドウとして抑圧したのである。
シャドウもあくまでも「私」の中に存在する。
分かりやすい例を挙げるならば『ジキル博士とハイド氏』だろう。
──という具合に、ユングの元型やこれをアレンジしたジョーゼフ・キャンベルの原型を使ってキャラクターメイキングする方法もある。
これは多岐に渡るので来週から概論的に解説する予定です。
その前に、標的というか学問的にではなく、実際に小説を書く立場から「敵対者」について考察してみたい
【若き日はたぐれば繋がっている】
僕が16歳の時に書いた短歌をアップしたページに、越水利江子さんがコメントをくれた。お読み頂いた方も多いのではないだろうか。
返信しようと思ったのだが、大事なことなので本編で触れようと思い、レスは入れず今週までとっておいた。
こういうコメントだ。
《16歳の男子が詠んだとは思えない短歌に、健さんは少年の頃から健さんだったんだなって思いました〜✨
私も又今振り返れば、少女の頃から私だったのかも…とはいえ、今の私が書けるものを探っている毎日です。若き日はたぐれば繋がっていた日々が、今は糸が切れかけているような気がして、落ち込んでいます😢💦》
大作家が若い頃書いた短歌を褒めてくれたことを自慢したいわけではなく、もちろんそれはとても嬉しいことだが、大切なのは「若き日はたぐれば繋がっていた日々が、今は糸が切れかけているような気がして、落ち込んでいます」の箇所である。
ここに、小説という表現の秘密が開示されている。
多くの小説家達は少年時代や少女時代の自分と繋がっている。なぜか? 作品を書くために継続的に「私」を分割する習慣があり、いわば自己という存在がマッピングされているからだ──と書くと身も蓋もない。
ここはやはり、「若き日はたぐれば繋がっていた」と書くべきだろう。
野暮を承知で「今は糸が切れかけているような気がして」という越水さんの文学的な言葉を僕流に翻訳すれば、もう一度「私」という地図を明瞭化しなければならないのだということになる。
地図を明瞭化するためには、さらなる「私」の分割が必要で、分割が完了すれば新しい小説を構想することが出来る。
分割された「私」が主人公とバディになる。あるいは「行為者」と「認識者」になる。優れた小説はそういう構造を持っている。
それがキャラクターメイキングの基本で、会員の皆さんにはここをしっかりおさえて欲しいと思う。
そして、3人目のキャラである「敵対者」である。ここまでを必死の思いでモダニズムでやる方がいい。「敵対者」も、ユングの言説を待つまでもなく、実はあなた自身の中に存在していたはずだ。
跳ぼうと願ったのに、それを引き止めた臆病な自分。快楽を受け入れたかったのに、世間体や外聞を気にして躊躇した自分。
人間関係は「関係の絶対性」によって決定され、それは時間軸に沿って動いていくものだ。したがって、「敵対者」が反対のポジションに配置される場合もある。
【参考例で復習します】
「行為者」と「認識者」について、わかりにくいかもしれないので具体的な小説で復習しておこう。
多くの小説は「認識者」の方が主人公である。バディが行為し、主人公がそれを見て意味を考えると言う構造だ。
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