特別公開:ワンルームの仕事部屋に流刑された僕が、アルベール・カミュ『ペスト』から学んだこと1 山川健一
僕らは今、新しい小説を書くために、カミュの小説の根底にある思想を学ばければならないのだと思う。
先週に引き続き、COVID-19の危機のただ中にいる皆さんが、新しい小説をどう発想したらいいのかということについて書く。
先週扱ったのはトーマス・マンの『ベニスに死す』だったが、今週はアルベール・カミュの『ペスト』を構造分析する中から新しい小説の可能性を探ってみよう。
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「私」物語化計画 2020年5月1日
特別公開:ワンルームの仕事部屋に流刑された僕が、アルベール・カミュ『ペスト』から学んだこと1 山川健一
全国に拡大された緊急事態宣言が、ここ数日の間に延長される可能性が高い。小中学校の休校が延長されると、休みの分を夏休みで補填することが不可能となり、日本の社会構造を根本的に見直す必要が出てくるかもしれない。
唐突に世界に降りかかったように見えるコロナウィルスは、想像以上の脅威となって僕らの現在と未来を脅かしている。
先週に引き続き、COVID-19の危機のただ中にいる皆さんが、新しい小説をどう発想したらいいのかということについて書く。
先週扱ったのはトーマス・マンの『ベニスに死す』だったが、今週はアルベール・カミュの『ペスト』を構造分析する中から新しい小説の可能性を探ってみよう。
ところでコロナウイルスの影響が拡大していくにつれて、スティーブン・ソダバーグ監督の『コンテイジョン』(2011)があちこちで話題になっている。強い致死力をもつウイルスのパンデミックを描いたディザスター映画で、僕も予告編だけインターネットで見た。あまりにもリアルだ。
同じようにカミュの『ペスト』(1947)も注目され、ニュースになっている。
『コンテイジョン』にしても『ペスト』にしても、いま僕らの周囲で起こっているのにその実態がよくわからない「現実」の姿をつぶさに見せてくれる。憶測や過剰な反応ではなく、きちんと彫り込まれた表現としてそいつを見せてくれるのだ。
カミュの『ペスト』はいまの世界、さらに日本と重なるのだ。
どんな小説なのか。ほとんどの人が読んでいないことを前提に、少し長いがまず冒頭に近い部分を紹介する。
四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診療室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまずいた。咄嗟に、気にもとめず押しのけて、階段を降りた。しかし、通りまで出て、その鼠がふだんいそうもない場所にいたという考えがふと浮び、引っ返して門番に注意した。ミッシェル老人の反発にぶつかって、自分の発見に異様なもののあることが一層はっきり感じられた。この死んだ鼠の存在は、彼にはただ奇妙に思われただけであるが、それが門番にとっては、まさに醜聞となるものであった。もっとも、門番の論旨ははっきりしたものであった──この建物には鼠はいないのである。医師が、二階の階段口に一匹、しかも多分死んだやつらしいのがいたといくら断言しても、ミッシェル氏の確信はびくともしなかった。この建物に鼠はいない。だからそいつは外からもってきたものに違いない。要するに、いたずらなのだ。
同じ日の夕方、ベルナール・リウーは、アパートの玄関に立って、自分のところへ上がって行く前に部屋の鍵を捜していたが、そのとき、廊下の暗い奥から、足もとのよろよろして、毛のぬれた、大きな鼠が現われるのを見た。鼠は立ち止り、ちょっと体の平均をとろうとする様子だったが、急に医師のほうへ駆け出し、また立ち止り、小さななき声をたてながらきりきり舞いをし、最後に半ば開いた唇から血を吐いて倒れた。医師はいっときその姿をながめて自分の部屋へ上がった。
新潮社世界文学48・宮崎嶺雄訳
ペスト菌を媒介する死んだ鼠からこの長編小説は始まるのである。小説の舞台は、カミュの故郷でもあるアルジェリアのオラン市だ。そこで突然ペストが発生し、瞬く間に人命が奪われていく。
オラン市は外界から遮断され、あらゆる試みは挫折し、ペストは拡大の一途をたどる。行政の対応は遅く、状況は悪化するばかりである。いまの日本とそっくりだ。
オラン市は十カ月に及ぶ都市封鎖を経験する。そのなかでの、ペストとの戦いの様子が、医師・リウーの視点から語られていく。
死者が出はじめ、リウーは死因がペストであることに気づき、新聞やラジオがそれを報じると町はパニックになる。市当局は最初は楽観的だったが死者の数は増えるばかりである。
やがてオラン市は外部と完全に遮断されるのだ。
もはや脱出は不可能だ。
市民はペストと戦いながら、精神の状態を崩してゆく。
この長編小説で特徴的なのは、複数の人物とその行動が群像劇風に描かれている手法と構造である。カミュというと『異邦人』が有名で、ある種叙情的な青春文学というイメージがあるが、この『ペスト』はドストエフスキーの作品のようだ。複数の登場人物が同じペストという問題を抱え、様々なことを考え様々な行動を引き起こす重層的な構造を持っている。
主人公はすでに述べたように医師のベルナール・リウーであるが、彼がこの作品の語り手だということが結末部分で明かされる。
よそ者のジャン・タルーの手帳がこの作品のもうひとつの語り手である。
医師のカステルとリシャール。博学で戦闘的なイエズス会の神父であるパヌルーの存在も重要だ。
作家志望の下級役人のジョセフ・グラン、絶望に駆られた犯罪者のコタール。予審判事のオトン、新聞記者のレイモン・ランベール。
その新聞記者のランベールが妻の待つパリに脱出したいというので、犯罪者のコタールが密輸業者を紹介する。コタール自身は逃亡者でありオラン市を出る気はなかった。
パヌルー神父は、「ペストの発生は人々の罪のせいである。悔い改めよ」と説教する。
リウー、タルー、下級役人のグランは必死に患者の治療を続ける。リウー達は志願者を募り保健隊を組織し、あらゆる努力を傾けて、ペストとの絶望的な闘いを続ける。
タルーがリウーに「なぜ、神を信じていないあなたがそんなに献身的にやるんですか?」と問うシーンがある。リウーはそれに対して「僕は自分としてできるだけ彼らを護ってやる、ただそれだけです」と答える。
ランベールは脱出計画を立て、それをリウーとタルーに打ち明けるが、彼らは町を離れる気はない。やらねばならない仕事が残っているからだ。
リウーはランベールに「ペストと闘う唯一の方法は誠実さということです。自分の責務を果たすことだと心得ています」と言うのである。
神によらずして聖者たりうるか──とこの小説でカミュは問うているのである──続きはオンラインサロンでご覧ください)