特別公開:現代文学の構造分析3 『日本一の商人 茜屋清兵衛奮闘記』(誉田龍一)のワールドモデルに注目しよう 山川健一

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『複数の伏線が絶妙のタイミングで拾われ、主人公の清兵衛は内面的な悩みや動機ではなく、外圧としてのプロットにつき動かされていくのである。誉田龍一さんは、それこそ丹念に反物を織るように小説を織っていく。エンターテインメント小説の醍醐味を、読者であるわれわれは堪能することができる。そのダイナミズムはポストモダン小説の対極にあると言うべきだろう。』

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「私」物語化計画 2019年4月12日

特別公開:現代文学の構造分析3 『日本一の商人 茜屋清兵衛奮闘記』(誉田龍一)のワールドモデルに注目しよう 山川健一

現代文学の構造分析と題しながら、『日本一の商人 茜屋清兵衛奮闘記』は時代小説ではないか、と疑問に思われた方もいるかもしれない。まずそのことについて私見を述べる。

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 たとえば同じ江戸時代を舞台にした小説が、明治時代に書かれ、大正時代に書かれ、昭和の時代に書かれ、そして今、誉田龍一さんによって新しい小説が書かれる。
同じ江戸時代を素材にしていようと、小説は時代の流れとともに革新されていくのだ。そういう意味において、『日本一の商人 茜屋清兵衛奮闘記』は現代小説なのである。
この作品は江戸時代を舞台にしているが、司馬遼太郎が描く明治維新物よりもはるかに「新しい」のである。
したがって多くの作家が多くの作品を書いたとしても、その時代やその人物が書き尽くされたということにはならないのだ。

まず押さえておかなければならないのは、この小説のワールドモデルと、それによっておのずと決定されるキャラクターメイキングである。

ワールドモデルは、江戸時代の堺の縮緬問屋とその周辺であり、主人公の清兵衛が潰れそうになった実家であるその店を立て直すために呼び戻されるところから物語は始まる。
父の左之助が放蕩の限りを尽くし、店の資金はおろか、今日の米まで買えない状況であり、店の番頭や手代も怠け放題。それを、まず店と前の通りを掃除することから立て直そうとする。

この枠組み、つまりワールドモデルとキャラクターメイキングが決定された段階で、この作品はほぼ出来上がったも同然である。
驚かされるのは、極めて精緻なプロットだ。
複数の伏線が絶妙のタイミングで拾われ、主人公の清兵衛は内面的な悩みや動機ではなく、外圧としてのプロットにつき動かされていくのである。誉田龍一さんは、それこそ丹念に反物を織るように小説を織っていく。エンターテインメント小説の醍醐味を、読者であるわれわれは堪能することができる。
そのダイナミズムはポストモダン小説の対極にあると言うべきだろう。

ポストモダン小説というのは純文学のカテゴリーに属し、「方法論が先行」し「意図的に時間軸を捻じ曲げる」パターンが多く、「僕らにはすでにオリジナルな感動など存在しない」といった地平で書かれる作品群だ。

僕自身にも『クロアシカ・バーの悲劇』というポストモダン的な作品集があるので悪口を言える立場では無いのだが、小説と言うものが力を失っていったのは、ポストモダンが純文学系の雑誌のメインストリームになっていった後ではないだろうか。多少なりともポストモダン的なフレイバーを持っていないと、純文学系雑誌の新人賞で最終候補に残るのは難しくなっている。

たとえばカフカが描いた得体の知れない不安、カミュが描いた不条理が現代文学の出発点で、やがてそれがポストモダンとして定着していったのだろうと思う。

水の中に手を入れる──すると中に包丁があって、手を切ってしまう。そんな不気味さをポストモダン小説は持っている。

なぜか?

それは……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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