特別公開:物語論(ナラトロジー)で「私」という物語を探る3 「欲望は幻想領域で呼吸するものだ」 山川健一

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『今の時代はさまざまなものが見えづらくなっているので、「ナラトロジーは私の体の中にある」と言える人はほぼいないだろうし、今のぼく自身にしても、かつてのように無闇に制度に喧嘩を売るみたいなことはできない。
だからこそ、今ナラトロジーを学ぶことには意味がある。
さらに言うならば、ナラトロジーをきちんと知らないと、ビギナーズラックみたいに1本は書けても、何十冊もの本を書きつづけていくことはできないだろう。』

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「私」物語化計画 2019年1月25日

特別公開:物語論(ナラトロジー)で「私」という物語を探る3 「欲望は幻想領域で呼吸するものだ」 山川健一

物語構造の最初の大きな特徴は、まず「欠落」がなければ始まることができないという点だった。これについては前回書いた通りで、多くの研究者が指摘していることでもあります。

そしてこれは実作者としてのぼくの勘なのだが、「欠落」とは求めているのに求められない場所に生じる。これを考える時に有効なのは、「欠落」を「欠落感」と置き換えることだ。いきなり「欠落」と言われてもなぁという人は、「欠落感」とか「欠乏感」だと考えてみてください。

そして「欠落感」は「禁止」によって生じ、「禁止」は「欲求」あるいは「欲望」が存在するからこそ、それを制止するために働く力なのである。

「欲求」あるいは「欲望」

「禁止」

「欠落」あるいは「欠落感」

──という順番になっているわけです。

したがって、「欲求」あるいは「欲望」がとても強い力で抑圧され、絶望的な「欠落」を抱えている人は、ナラトロジーが体内に埋め込まれているようなものなので、あえてそれを学ぶ必要なんてないのだ。

じつは、高校生の頃のぼくはそういう少年だった。

時代と言うしかないのかもしれないが、1970年代前半、多くの少年や少女は「ナチュラルに生きていきたい」という簡単な欲求を押し潰されそうになり、そのうちの何人かは高校や両親、デモへ行けば機動隊員と激しくぶつかった。ぼくも「そのうちの何人」かの1人であり、思い返せば理不尽な酷い目にあったと思うが、「私」という物語をスタートさせるための、十分な「欠落」があったということだろう。

 

そんなふうに感じていたのは別に高校生だけではなくて、たとえば越水利江子さんの「風のラヴソング」の主人公は幼い女の子だが、彼女はどうにもならない「欠落」を抱えており、その友達も同様で、だからこそ描かれた作品が深くなり読者は感動する。そういう構造になっている。

だが今の時代はさまざまなものが見えづらくなっているので、「ナラトロジーは私の体の中にある」と言える人はほぼいないだろうし、今のぼく自身にしても、かつてのように無闇に制度に喧嘩を売るみたいなことはできない。

だからこそ、今ナラトロジーを学ぶことには意味がある。

さらに言うならば、ナラトロジーをきちんと知らないと、ビギナーズラックみたいに1本は書けても、何十冊もの本を書きつづけていくことはできないだろう。

 

今回のテーマは「欲望」なのだが、では「欲求」と「欲望」はどう違うか。端的に言ってしまえば……(特別公開はここまで、続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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