特別公開:小説の「思想」を育てるリベラル・アーツと文学主義 山川健一
「思想」をいかに育てたらいいのかということについて書く
先週はカミュや宮下恵茉さんの作品に触れて、小説にとって「思想」がとても大切だという話を書いた。今週はこの話を受けて、それでは「思想」をいかに育てたらいいのかということについて書く。
結論を先に書くと、文学における「思想」は企業でよく使われる言葉、ジェネラリストからしか生まれない。スペシャリストでは無理だということだ。もっと正確に言うならば、スペシャリストが自分の専門分野に閉じこもっている限り「思想」は生まれない。
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「私」物語化計画 2020年5月15日
特別公開:小説の「思想」を育てるリベラル・アーツと文学主義 山川健一
先週はカミュや宮下恵茉さんの作品に触れて、小説にとって「思想」がとても大切だという話を書いた。今週はこの話を受けて、それでは「思想」をいかに育てたらいいのかということについて書く。
結論を先に書くと、文学における「思想」は企業でよく使われる言葉、ジェネラリストからしか生まれない。スペシャリストでは無理だということだ。もっと正確に言うならば、スペシャリストが自分の専門分野に閉じこもっている限り「思想」は生まれない。
検察官の定年延長を含む国家公務員法改正案が審議入りし、ネットでは「 #検察庁法改正に抗議します 」との投稿が相次ぎ、芸能人も意見表明した。歌手のきゃりーぱみゅぱみゅも投稿し、さんざんに叩かれ、後に削除した。
芸能人が政治について語った──という事実がそれほど奇異だったのだろうか。イメージが崩れるとか、政治に関しては素人のクセにとか、自分と意見が違ってガッカリしたとか、影響力を考えるべき等の批判が寄せられたわけだ。
政権批判するな、日本を貶めるなという論旨が大半を占めた。
しかし公然と法を破る政府を裁くことができないなら、検察は正義の看板を外したも同然で、芸能人にだってそれに対する意見はあるだろう。
総理大臣まで逮捕できる権限を持っている人の定年の延長を内閣または法務大臣が決められる。これはどう考えたって問題だ。安倍総理は「恣意的な運用はしない」と答弁しているが、では「どういう基準なのか」という質問には答えない。
検察官の定年延長問題だけではない。日本には現在非常事態宣言が出されており、新型コロナウィルスをめぐって僕らは困難な毎日を強いられている。
コロナの問題に関しても、芸能人たちは様々な発言をしており、これらは概ね好意的には受け取られていない。素人のくせに余計なことを言うなというわけだ。
さて、芸能人と一括りにしたが、実はこれは作家だって同じなのだ。イメージが崩れる、政治に関しては素人、自分と意見が違うなどという指摘は作家にもあてはまる。理系の小説家も今は多いが、感染症に関して作家は概ね素人である。
作家はあらゆることに関して素人である。
たとえば僕が、房総半島の漁師を主人公に小説を書くとする。この漁師は昔からの友達で、僕は彼のことをよく知っている。1ヵ月彼の家に泊まり込み、朝早く起きて一緒に漁に出て、魚を獲る。漁業権の問題についても、かなり突っ込んだ話を彼とする。やがて僕は限りなく本物の漁師に近くなり、小説を書く。
それが終わり、テレビ局を舞台に新しい長編に取り掛かかる。取材を繰り返し、テレビマンとほぼ同様の知見を共有し──漁師の生活の事はやがて遠くなる。
テレビ局の小説が終わると、今度は遺伝子をめぐるSFに取り組むことになり、DNAについて可能な限りの知見を収集する。テレビの世界は遠くなる。
小説を書くという作業は、その繰り返しだ。作家は書こうとする世界に限りなく近づき、だが作品が終われば全てはパッセージになってしまう。つまり小説家は、あらゆるカテゴリーに関して素人のままなのだ。
小説家だけではない。
複雑化したこの情報化社会において、銀行マンは経済のことについては詳しいだろうが、それ以外に関してはよく知らない。バーテンダーは酒の知見に関しては一流だとしてもその他のことに関しては素人である。
政治家も素人の集団だ。
感染症の専門家も、法律や経済の専門家も、自分自身の専門以外のカテゴリーについては素人である。
では素人の僕らは、検察官の定年延長問題についても新型コロナ肺炎についても原発問題についても、発言してはいけないのだろうか?
僕はそうは思わないのだ。
誰もが自分自身が主人公の世界のてっぺんに腰掛けているはずだからだ。ハウリング・ウルフというブルースマンの〈シッティング・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド〉という曲を聴いてから、僕はそう思うようになった。
このブルースの歌詞は単純で、ある夏の暑い日、女が部屋を出て行ってしまう。男1人が残される。ハードな仕事をこなさなければならない。だけど問題ないさ、俺は世界のてっぺんに腰かけているんだから──と男は考える。世界とはどのような世界だろう、と若かった僕は考えたものだった。そして気がついた。そいつは「自分自身の世界」なのだと。誰もが自分の世界の頂上に腰掛けているべきなのだ。
僕らは自分の世界で生き、そこで死んでいくしかない。あらゆることを自分で考え決定しなければならない。素人だろうがなんだろうが、自分自身で考えなければならないのだ。そして、考えるためにこそ小説を書く。すると「思想」が生まれるのだ。
リベラル・アーツ(liberal arts)という言葉をご存知だろうか。大学の科目の名称で、僕らの時代は一般教養科目といったものだが、実はそれとも少し違う。
リベラル・アーツとは──とこの小説でカミュは問うているのである──続きはオンラインサロンでご覧ください)