特別全文公開:森くま堂さんの『ちこくのりゆう』(絵本)と『草上の朝食』(短編小説)が開示する幻想力 山川健一

小説とは幻想の結果なのであり、すなわち夢見る力が小説を書く原動力になるのだ──

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「私」物語化計画 2021年3月5日

特別全文公開:森くま堂さんの『ちこくのりゆう』(絵本)と『草上の朝食』(短編小説)が開示する幻想力 山川健一

我田引水になるが、あるいは自画自賛と言うべきか、先週の「会員の方への緊急タイプ別アドバイス」はとても大事な回だったと思う。

人間同士の会話や大学やこのサロンでの講義はインタラクティブなもので、つまり「関係の絶対性」が発動するので、先週僕が図らずもあんな原稿を書いたのは、会員の皆様が呼び寄せたと言うこともできる。

皆が前に進んでおり、しかし前に進むと壁がある。その壁をどうか乗り越えてほしいと思う。

予告しておいたように、今週は森くま堂さんの『ちこくのりゆう』をまず紹介します。

 

【絵本『ちこくのりゆう』】

本書の版元の童心社のサイトの紹介にはこんな文章が掲載されている。

ちこくのりゆう (童心社のおはなしえほん) :森くま堂/北村 裕花 - 童心社

先生、きいてえな。朝おきたら、とうちゃんとかあちゃんがカブトムシにかわっとったんや。だけど時計を見たら学校がはじまる時間やったから、いってきますと、ぼくはうちをとびだしてん。ところが、ノラネコのタイショーに声をかけられて、そのとたん……ちこくのりゆうを先生に説明する体ではじまる物語は、ページをめくるたび度肝をぬかれる抱腹絶倒の展開をしていきます。

第9回絵本テキスト大賞受賞のナンセンス絵本です!

ちこくのりゆう (童心社のおはなしえほん) :森くま堂/北村 裕花 – 童心社

カフカの『変身』ではなぜ主人公が毒虫に変わったのかという理由は最後まで説明されないが、子供向けの絵本である『ちこくのりゆう』では、もちろんそんな物騒な事は無い。

小学生の男子が先生に遅刻の理由を説明し、最後は、こんなに大変だったのだから怒ったらあかんのよ、と訴えることで物語が閉じられる。

わかりやすく、起承転結で構造分析するならば、以下のようになると思う。

 

「起」 小学生の男の子が目をさますと、両親がカブトムシになっている。物語の冒頭の欠落はお父さんとお母さんであり、日常生活そのものだ。
だがこの少年は

「ふたりともくいいじがはってるし、なんやへんなもんでもたべて、こないなことになったんやろうか」

と考える。

つまり動じない。

もちろんこれは少年が先生に遅刻の言い訳として話すストーリーなので、彼は冷静でいられるわけだが、この冷静さのトーンがこの作品を魅力的にしている。

 

「承」 ネコのタイショーとの出会い。そして少年とネコの入れ替わりが発生する。つまり少年がネコになり塀の上から「ぼく」に変身したタイショーを見下ろしている。ここで少年は相変わらず「がっこうにいかんでも、ようなった」とノーテンキなことを考える。

 

「転」 ネコになった少年がボスネコのキングと出会い、機転をきかせて逃げようとするも失敗、電信柱の上から地面に落下して人間に戻り、カブトムシになった両親を救出するために帰宅する。

この「転」のパートには「子供の幻想力」が遺憾なく発揮されている。そして物語全体の秘密が開示されているパートでもある。

 

「結」 この物語の全体が、遅刻した小学生の男子がその理由を先生に語って聞かせる──という結末が示される。秀逸なのは、そんな具合にメッチャたいへんだったのにちゃんと学校に来たのだ、「そやさかい、ぼくがちこくしたこと、そないにおこったらあかんのんよ。なあ、せんせい!」という甘ったれた少年の語りである。

 

たとえば10歳の少年の幻想力が、すべての物語を成立させる原動力となる。

小説とは幻想の結果なのであり、すなわち夢見る力が小説を書く原動力になるのだ。

そして森くま堂さんの『ちこくのりゆう』では、結末の少年の語りが、少年と教師の、さらに少年と両親との愛情に満ちた強い絆を表現しているのである。

絵本なのでテキストの分量はそんなに多くないが、その短い文章でこれだけ暖かい世界を表現することが可能なのが児童文学なのだろう。

 

【短編小説『草上の朝食』】

推薦作として掲載した『草上の昼食』(佐藤亮子──森くま堂)を見ていこう。

物語化計画文庫 『草上の昼食』(佐藤亮子──森くま堂)(『草上の昼食』はFacebookグループ内で会員にのみ公開されています)

これは大人向けの短編小説である。子供時代のことが書かれているが、途中から構造が多層的になっていく。

以下の箇所など、ご本人は無意識に書いたのかもしれないが、かなり高度な時制を使用している。

 

 ああ、なんであんなにおこったんだろう。もっとやさしくすればよかったのに。
くっちゃんは一年後の秋、お父さんといっしょに海釣りに行き波にのまれて死んでしまうのだから…。

後悔しながら、それでもやっぱり、くっちゃんの胸元にぐいっと雑巾をつきつけた。

物語化計画文庫 『草上の昼食』(佐藤亮子──森くま堂)

 

ここで読者の我々は、この短編小説が少女時代の回想なのだということを知る。小説の主人公である少女は友人が一年後の秋、海で死ぬことを知らないはずで、それを知っているのは大人になった「私」である。

そして《後悔しながら、それでもやっぱり、くっちゃんの胸元にぐいっと雑巾をつきつけた。》の箇所が問題で、普通に考えればここは時制が破綻している。

後悔しているのは大人になった現在の「私」でしかあり得ず、彼女は友達の胸に雑巾をつきつけることなど不可能である。

ここは訂正するよう指示出しをしようかと何度も考えたのだが、結局このままで良いのだと僕は考えるに至った。この破綻した時制にこそ、この短編小説の最大の魅力があるからだ。

つまりそれこそが「夢見る力」なのであり、それは結末部分と連動している。

 

小説の後半、《ふと目をさますと暗い。夜のニュースで台風がこの町を通過すると予報で言っていたのを思いだす。》から小説は現在の世界になる。

台風という象徴的な出来事の中で、数十年に及ぶであろうストーリーが簡潔に語られる。

おけいの恋は実らなかった。

地元の短大を卒業すると役場に勤めている男と結婚し、今ではずいぶん白髪が増えていた。

強風にみしっと家が揺れ、隣の部屋で、息子が座るイスがきしむ。今度こそ、目指す大学に受かってもらいたいものだ──と、母になっている主人公は思う。

そして結末部分で主人公は願うのだ。

 

 この大風のむこうに、あの世界が今もあったらいいのに……。そこではあいかわらず、くっちゃんが目をくるくるさせて「はだかだ、はだかだ」とはしゃぎ、つるつるの顔のおけいが伊香くんに片思いしているのだ。

物語化計画文庫 『草上の昼食』(佐藤亮子──森くま堂)

 

大風の向こうに、あの世界が確かにあるからこそ、森くま堂さんの『ちこくのりゆう』が生まれたのだ。そういう構造になっている。物語を紡ぐ幻想力は、実は過去に向いている。そのことが、『ちこくのりゆう』と『草上の朝食』を並べてみるとよくわかるではないか。

『草上の朝食』の主人公は、きっと友達のおけい以上に苦労してきたのだろう。恋愛に胸をときめかせ、子育てで悩み、阪神淡路大震災の明け方に悲しみを噛み締めたのだろう。

それを通り抜けて、確かに存在する「あの世界」を夢見ること。それこそが「小説を書く」「小説を読む」ということだ。

そして、大切なことは、幻想する力が強ければ強いほどフィクションの深度がふかくなるということだ。つまり「面白い」物語になる。そのいい例が『ちこくのりゆう』である。この絵本は絶妙なアイデアで書かれている。いや、本当はそうではない。今はもう失われてしまった「あの世界」を痛切に夢見る悲しみが、ナンセンス絵本を成立させる力になったのである。

個人的な話になって申し訳ないが、今日は僕の母の命日である。「あの世界」では、彼女はまだ若く美しい。

そして我々を巻き込む巨大な台風は巨大な勢力を保ちながら、西から東に列島を縦断中なのだろう。日本はすでに瓦解する寸前である。

過去を夢見る力を静かに蓄えることが大切だ。新しい小説はいつも過去のどこかに眠っているのだ。透明な悲しみの感情を大切にしよう。

森くま堂さんの作品をお読み頂いたので、僕の講義テキストは今回は短めだが、ここで終わりにします。

来週からはいよいよドストエフスキーの『罪と罰』です。必ず読了しておいてください。ドストエフスキーの「ジェノバの夜」とは何だったのかをまず考えてみたいと思っている。

 

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