特別公開:自伝の書き方を教えます2 山川健一

自伝を書くとしたら、複数ある自分のどんな面をクローズアップし、どういうふうにキャラメイクするか?

《恥の多い生涯を送ってきました。》

あまりにも有名な太宰治『人間失格』の冒頭部分だが、この自伝的小説のキャラクターメイキングとワールドモデルの設定が、この短い一文で的確に表現されている──

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「私」物語化計画 2020年6月26日

特別公開:自伝の書き方を教えます2 山川健一

先々週、「講義のスピードが速すぎる」というメールを何通かいただいたと書いたら、今週もまた「そうだ、そうだ」というメールが届いた。

そうかな?

事務上の手続きからアメックスのカードが使えなくなり、何人かの方が退会され今の会員数は70数名だが、それでも大学のクラスの倍はいて、皆に合わせたペース配分が難しい。

たった今会員の皆さんへの講評やメールの返信を10通ほど書き、夜も明けてきたら地震があり、こうしてようやく今週分の原稿を書くところである。これが遅くなるとスタッフに迷惑をかける。

ま、急がず慌てずゆっくりいこう。

ところでこの「ま」を、ひと呼吸入れるために僕は時々使うが、若い頃愛読した吉行淳之介のエッセイから学んだテクである。

エッセイは時代の表皮であり、古くなるのも早い。小説のほうはともかく吉行淳之介のエッセイを読む人はもうあまりいないだろうが、あの頃は皆がこぞって愛読したものである。

意識的に真似をしたわけではないのだが、年齢を経てふと気がつくと僕も使うようになっていた。ま、僕もなりたくもない大人になってしまったということだろう。

脱線ついでに司馬遼太郎で有名なのが「以下、無用のことながら」である。

時代小説の途中で、作者が割り込んできていろいろ述べるわけだが、無用どころかここが非常に面白い。司馬史観全開である。

しかしこれは司馬遼太郎のエッセイ集の表題にもなっており、さすがにパクるわけにはいかない。自分なりの何か新しいフレーズを考えないとな、と思案しているところである。

 

今週は「自伝の書き方を教えます」の2回目である。宿題を出しておいた。

 

《実際に書くか書かないかはともかく、自伝を書くとしたら、どういう領域の自分をクローズアップし、それにはどういうキャラクターがいちばんぴったりくるかを考えておいてください。》

 

あなたは考えましたか?

まだ考えていない人はこの場で考えよう。

自伝を書くとしたら、複数ある自分のどんな面をクローズアップし、どういうふうにキャラメイクするか?

 

《恥の多い生涯を送ってきました。》

 

あまりにも有名な太宰治『人間失格』の冒頭部分だが、この自伝的小説のキャラクターメイキングとワールドモデルの設定が、この短い一文で的確に表現されている。

太宰治にだって実に様々な側面があった。

文学者であり、左翼活動の支援者であり、地主の息子であり、女の人にはめっぽう人気があり、しかし最初の心中未遂事件の時に海で溺れながら相手の女が呼んだのは別の男の名前だった──という悲惨ながらもユーモラスな体験がコアにあり、心の底から女性というものを信用することができなかった。

同時に女は実際に死んでしまい自分だけが助かったので、「自分も死ななければならない」という贖罪の思いが募っていった。

そうした彼の人生を《恥の多い生涯を送ってきました。》という一文は見事に切り取っている。

これを「太宰治だからなぁ」と遠ざけてはならない。「太宰治だからなぁ」とか「ゴッホは天才だから」と思った瞬間に彼らの作品は遠ざかってしまう。

僕らは可能な限り先行者を自分自身に近づけなければならないのだ。それが表現の鉄則である。

 

最近、大学で教えていたゼミの卒業生の何人かと電話で話をすることが多い。ブラックなので会社を辞めたいとか恋愛の悩みとか創作上の行き詰まりとか、いろいろなことで電話をしてくる。

この『「私」物語化計画』にも何人かが参加してくれているが、一人がこう言っていた。

「28の女に自伝が書けるわけないじゃないですか」

「え、お前もう28歳になったのか?」

「私だけじゃありません。みんなそうです」

それはそうだ。

少年も少女も老い易く学は成り難いということだろう。

それではまずタイトルを付けてみよう。中原中也は自ら書いた小自伝に『詩的履歴書』というタイトルをつけたが、これを見るだけで自伝の内容が想像できる。

『詩的履歴書』は、1936年(昭和11年)に書かれた「我が詩観」という詩論に添えられた中原自身による創作歴だが、長谷川泰子との生涯にわたる恋愛と、溺愛した長男文也の死という、彼にとって最大の2つの事件については触れられていない──続きはオンラインサロンでご覧ください)

 

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