特別公開:ワンルームの仕事部屋に流刑された僕が、アルベール・カミュ『ペスト』から学んだこと2 山川健一
「思想」が作品の中核で呼吸していないと、長い小説は成立しないのだ。
カミュはなぜ『ぺスト』を書くことができたのだろうか。それは思想があったからだ。僕がここで言う思想とは、マルクス主義とか実存主義とか、1つの論理体系を持ち統合された思想のことではない。
小説家が新しい長編を書くために必要な、その作品のコアを形成する「考え方」のことだ。
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「私」物語化計画 2020年5月8日
特別公開:ワンルームの仕事部屋に流刑された僕が、アルベール・カミュ『ペスト』から学んだこと2 山川健一
カミュはなぜ『ぺスト』を書くことができたのだろうか。それは思想があったからだ。僕がここで言う思想とは、マルクス主義とか実存主義とか、1つの論理体系を持ち統合された思想のことではない。
小説家が新しい長編を書くために必要な、その作品のコアを形成する「考え方」のことだ。
例えば宮下恵茉さんの新しいシリーズ『学園ファイブスター』の3巻「5つの星がそろうとき」にこんな台詞がある。
「これはあくまで俺の予想だが、おそらく、「選ばれしもの」全員が同じことを心の中で念じると、あの化け物を出すことができるんだと思う。」
宮下恵茉『学園ファイブスター』3巻「5つの星がそろうとき」
「俺は、さっきの化け物を見て確信した。俺たちは、大人たちの言いなりになんてならない。未来のために戦わなくちゃいけないんだ。そのために、とくべつな力と、さっきの化け物をあたえられた。そうとしか思えないだろ。」
(同)
この男子の言葉に、作品の思想が込められている。
学園には何かしらの陰謀がある。その陰謀はもしかしたら他の学園にもあるのかもしれない。そして読者は、陰謀は学園を越えてこの世界の全体に張り巡らされているのかもしれないと考えてしまう。
しかし、全員が同じことを心の中で念じれば強大な力(化け物)を手に入れることが可能になり、陰謀と戦うことができる──という思想が根底にある。世界は見た通りの姿をしているわけではなく、誰かと力を合わせれば陰謀とさえ戦うことが出来るという思想である。
僕が言いたいのは、こういう「思想」が作品の中核で呼吸していないと、長い小説は成立しないのだということだ。
カミュの『ペスト』ならば、主人公のリウーの「ペストと闘う唯一の方法は誠実さ」なのであり、「自分の責務を果たすこと」が大切なのだという考え方が作品の中核をなす思想である。
これは個人的な感想だが、カミュの『ペスト』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に対する挑戦として書かれ、まだ若かったカミュは先行するロシアの文豪を超えたのだと思う。
作品の評価とか売れ行きとか面白さなどのレベルではなく、思想として、リウーの言葉は『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を超えたのである。
ドストエフスキーはバルザック風の人情話からスタートし、犯罪を描くことにより不条理に至り、神の存在を問うた小説家だった。
一方カミュの場合は、出発地点が不条理だった。だからドストエフスキーを超えられなければ意味はないのだ──と、カミュは思っていただろう。
【カミュの思想の変遷】
カミュは実存主義の小説家だと評されることが多いが、本人はこれをずっと否定していた。46歳の若さで交通事故で亡くなっており、いくつかの思想書があるが、必ずしも完成度は高くない。『シーシュポスの神話』や『反抗的人間』などだ。
会員の皆さんもカミュの小説以外を読む必要はないと思うが、彼の小説の方法論、現代文学の構造を学ぶ上で参考になるのでアウトラインを紹介しておく。
その前にまず伝記的な事実を紹介しておく。
カミュはアルジェリアのモンドヴィで生まれた。フランス人入植者の父は葡萄酒輸出会社に勤めていたが、戦争で早くに亡くなった。
アルジェ市の場末で、ほとんど耳が聞こえない母親に育てられた。三つの部屋に5人がひしめいていたそうだ。
アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書いた。1942年に『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、1951年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立していった。以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表し、1957年ノーベル文学賞を受賞するが、交通事故で死亡した。
実存主義の哲学者で小説も書いたジャン=ポール・サルトルがインテリの家庭に育ったのに比べ、カミュはアルジェの道端や海岸を走りまわって育った。サッカーが得意で、ゴールキーパーだった。
この頃の記憶が『異邦人』に生かされている。
『異邦人』は世界的な大ベストセラーになったが、それはこの作品が巧みな青春小説でありながら、同時にやがて世界に溢れることになる消費文明の落とし子である「目的を持たない青年」の内面の思想化に成功していたからだ。
主人公のムルソーは、養老院で母が死んだという通知をうけても悲しみを感じることがなく、やがて酷暑のなかでアラブ人たちの喧嘩に巻きこまれ、ナイフをふりかざして襲ってきたアラブ人にピストルの弾を四たび撃ちこんだ。
『異邦人』の第2部では、ムルソーの監獄生活と裁判が描かれる。検事の言葉や証人の態度が淡々と綴られ、ムルソーは御用司祭の訪問を断る。
裁判でムルソーは弾劾される。
「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴にゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」(『異邦人』)
カミュが独特なのは、自分の小説の主人公の「やる気のなさ」「目的感のなさ」「宗教的な倫理の外側にいる自分」といった漠然とした感じに「不条理」という思想を与えたことだろう。
【不条理の思想】
不条理について書いた『シーシュポスの神話』(1942)の冒頭でカミュは書いている。
これまでは結論と考えられていた不条理が、このエッセイでは出発点と見なされている
『シーシュポスの神話』
ギリシア神話に登場するシーシュポスは、神々を欺いたことで怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。
彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。
カミュはこう書いている。
真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
なかなかシャープなスタートだが、その後がいけない。人生は不条理な事に満ちており、無意味である。だからこそ自分なりの価値観を大切にして生きなければならない──というような通俗なお説教になっていくのだ。ま、若書きのエッセイなので仕方がない。この本が出版されたのは『異邦人』と同じ1942年、カミュはまだ29歳なのである。
しかし、カミュが出発の時に不条理という独特な思想を抱き、それを小説化したという事実は大きい。
人間は本質的に全てを理解したいと望む存在であり、しかし世界は人間が完全に理解することのできないものである──と彼は『シーシュポスの神話』で書く。そこに不条理が生まれるのだ、と。
ノーベル賞作家を相手に偉そうなことを書くが、29歳にしては上出来の分析である。こんなことを言うのは、もちろん僕がカミュという作家を深く愛しているからだ。カミュは「理解することは、何よりも統一することである」とも書いており、これはほとんど小説のための創作ノートみたいな文章である。
ところで『異邦人』のムルソーは、裁判のなかで自分がインテリだと思われていることを知り、驚く。どうも釈然としないなという感じである。
自分はキリスト教的な倫理をベースにした「知」の反対側にいるはずだと考えていたからだ。カミュが共産党に入りながら、些細な言葉の使い方を批判され除名されたのも、同じ理由であったろう。
この小説のタイトルである「異邦人」とは、「社会や集団や国家というものは、個人が異質な言動をとったとたん、言葉づかいのどんな細部にも異質なものを発見しようとするのだ。異邦人として葬り去ろうとする。いいさ、さっさと裁いてくれよ」という意味だろう。
しかしこの後、カミュは自分のいわば小説的な思想を改変していくのである。そこが凄い。
【革命的な人間か反抗的人間か】
思えば──とこの小説でカミュは問うているのである──続きはオンラインサロンでご覧ください)