特別公開:小説の終わらせ方 05 世界から零れ落ちる──『鏡の中のガラスの船』『さよならの挨拶を』『水晶の夜』のエンディング解説 山川健一
あらゆる表現は、制度からこぼれ落ちていく個体の悲しみを描くものである──
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「私」物語化計画 2021年5月14日
特別公開:小説の終わらせ方 05 世界から零れ落ちる──『鏡の中のガラスの船』『さよならの挨拶を』『水晶の夜』のエンディング解説 山川健一
今週も、結末部分を書く方法についてである。
おさらいをしておく。6つのパターンがあり、4つまでは解説した。
- 概念を映像化して終わらせる。
- 作品全体の思想をさらに展開して終わらせる。
- 喪失感の表現で終わらせる。
- 希望の表現/世界と一体化して終わらせる。
- 世界から零れ落ちることで終わらせる。
- 作品を数行で一気に逆転照射することで終わらせる(つまりドンデン返し)。
今週は【世界から零れ落ちることで終わらせる】である。あらゆる表現は、制度からこぼれ落ちていく個体の悲しみを描くものである。
これが表現の鉄則であり、この「悲しみ」を結末に持ってくるのである。
制度からこぼれ落ちていく──と言って瞬間的に理解できる人はいいとして、難しい表現だなと感じる方々に例え話を書いておく。
主人公が四方を囲まれた部屋に閉じ込められているとする。この部屋が彼にとっての世界であり、現実であり、日常生活だ。壁は強固で、ぶつかってもぶつかっても破壊することができない。
何度ジャンプしても、壁を乗り越えることもできない。そんな場合どうしたらいいだろうか。床板を踏み抜き、落下するしか方法がないのである。
主人公のこうした行為を描くのが、端的に言えばクライムノベルである。床板を踏み抜くように、彼は人を殺す。あるいは殺される。そこまで行かなくても、堕落していくのである。
【『鏡の中のガラスの船』の合わせ技】
今週は、僕自身の作品の結末を紹介することで、主人公が世界からどんな具合に零れてしまうのかを見ていただこう。
まず、学生時代に書いたデビュー作の『鏡の中のガラスの船』だ。
気がついた時、僕は、個室の便器の中に顔を突っ込んでいた。
水が、血の色に染まっている。遠くから、声が聞こえてくる。
──あれは、計画的な犯行ではなかった。もみ合っているうちに殺ってしまったんだ。だが、それも詳しく喋る必要はない。そして、おまえはM評の活動家だ。幹部だよ。今日、ここで赤ヘルに襲われた。いいな、わかったな……。
おれは、まだくたばっちゃいないぞ、と思った。だが、起き上がれるだろうか? 体に力をこめようとするのだが、うまくゆかない。他人の体のようで、不思議に痛みも感じなかった。
腕を突っぱり、顔を上げ、便器の中に吐いた。折れた歯も、吐き出した。鉄パイプで殴られた頭のどこかから、血が流れつづけているようだ。
それから、時間をかけ、個室から這い出した。光が見えた。あちらが出口なのだろう。僕は目を閉じ、出口のほうへ這って行った。風を感じることができた。このまま死ぬのだろうか? それとも、死ぬほどじゃないんだろうか。
あれがどうなろうと、これがどうなろうと、そんなことはどうだっていいのだ。あれがどうなろうと、これがどうなろうと、僕は僕でしかないのだ。そいつは、なんて幸福なことなのだろう。
目を開けると眩しい光が、瞳の中で拡散する。グリーンに輝く、光の世界だった。
冷たい空気の向こう側で、何かが揺れている。
若葉が見える。若葉は、ボートを浮かべた水面の反射光を映して、蝶のように風に舞った。
鏡の中の世界のように、それらはあまりにも眩しかった。
池を満たした水や、若葉や木立は、自ら発光している。それらは交錯し合って、淡いグリーンにきらめいている。
船が見える。穏やかな水面に、ガラスで出来たボートが浮かんでいる。あれに乗って行こう。
溢れる光の中心に、太陽の黒点のような、一点の黒い影があるのがわかる。それは空の果て、暗い宇宙の入り口だ。そうだ、あそこには海がある。
ガラスの船が、水面で風と光とに揺れている。船の腹では、白い波がさざめいている。
あれに、乗って行こう。律子、僕は、もう行くよ。
水面に半透明のかげが落ちて、波間で揺れている。ガラスの船が、水面を軽やかに滑るように、こちらにやってくる。そいつは、やがてふわりと宙に浮き、薄い空気の中を僕のところまでやってくるだろう。
さあ、もう行かなくては──。
Google Booksにこんな解説が載っているのを今見つけた。
青春の彷徨をみずみずしい感性で描く山川健一のデビュー作。レッド・ツェッペリン、闘い、リンチ殺人事件、ジャズ喫茶、バスケット・シューズ、コーラ・ブラウンのストッキング、遊園地……。危機の予感のなかで語られる、失われた70年代への鮮烈なレクイエム。第20回「群像」新人賞優秀作受賞。
この結末シーンは、学生運動のセクトのメンバーだと勘違いされた主人公が、敵対するセクトの人間にリンチされるシーンである。
多分、彼はこのまま死ぬ。
「──あれは、計画的な犯行ではなかった」というのは、リンチした男が警察の取り調べでそう言えと言っているわけだ。
この作品は『ガラスの船』という仮題で書き進めたのだが、結末シーンの「鏡の中の世界のように、それらはあまりにも眩しかった」という表現に連動して『鏡の中のガラスの船』に変更した。
プロットの段階で結末は決まっていた。むしろ真ん中のストーリーをどう組み立てればいいのかということが未決定だった。
冒頭の「夕暮れの風は冷たかった。僕は遊園地のベンチから立ち上がり、これからはじまる濃密な時間をどうすごそうか、と考えてみる」は、実は高校時代に書いた20枚程度の掌編作品の冒頭である。
この20枚を丸ごと1章にして、既に決まっているエンディングに向けてプロットを作っていったわけだ。
主人公が世界から零れ落ちることでこの小説は終わっている。そしてこの結末は、【概念を映像化して終わらせる】にも当てはまるだろう。
水面を軽やかに滑るようにこちらにやってきて、やがてふわりと宙に浮き、薄い空気の中を主人公を迎えにくるガラスの船が、「概念の映像化」に相当する。
確かに主人公は世界から零れ落ちていこうとしているわけだが、ガラスの船というイメージは一種の宗教的な救済なのだ。
ちなみに「あれがどうなろうと、これがどうなろうと、そんなことはどうだっていいのだ」は中原中也の詩のパクりだ。その他にも主人公がサーニンを読んでいたりする。新人賞に応募した作品なので、年上の選考委員達が「作者は無教養なロック少年のようだが、中也やロシア文学程度は読んでいるのか」と思ってくれるよう、意図的にやったことである。
【『さよならの挨拶を』の最後の1行を書く前に】
次に『さよならの挨拶を』の結末部分を見ていただこう───続きはオンラインサロンでご覧ください)